和育道〜wa-iku〜
道の章

土光どこう敏夫としお「私はそれ以上に働く」――上にいくほど、重くする

「社員には3倍、役員には10倍、私はそれ以上に働く」。69歳で東芝の再建を託された男が、就任の日に言った言葉です。財界のトップにいながら、家での食事はめざしと味噌汁。84歳で行政改革を無報酬で引き受けた人が示したのは、働く量ではなく、順序でした。

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早朝の薄暗い工場を、布の包みを提げて一人で歩く年配の男性の後ろ姿(イメージ挿絵:和育道)
早朝の薄暗い工場を、布の包みを提げて一人で歩く年配の男性の後ろ姿(イメージ挿絵:和育道)

本日ご紹介するのは、財界のいちばん上まで行きながら、家ではめざしと味噌汁を食べていた人です。

その姿がテレビで紹介されて、日本中が名前を覚えました。

さて、どんな人だったのでしょうか。

上に立つ人が、いちばんラクをしている。

そういうチームは、どれだけ立派な理念を掲げても動きません。逆に、いちばんきつい部分を上の人が黙って取っているチームは、言わなくても動く。

昨日の中江藤樹は、自分の顔つきを整えることで村を変えました。今日は、もっと荒々しい方法です。

自分が、誰よりも働く。

言葉としては陳腐です。どの会社にもある標語です。しかし、これを本当にやり切った人がいます。しかも、70歳を過ぎてから。

「私はそれ以上に働く」

土光敏夫(どこう・としお)。1896年に生まれ、1988年に亡くなりました(91歳没)。石川島播磨重工業と東芝の社長を務め、経団連会長、そして第二次臨時行政調査会——通称「土光臨調」の会長を務めた人です。

岡山県の生まれ。東京高等工業学校(現在の東京工業大学)を出て、石川島造船所に入社しました。技術者としてタービンの開発に打ち込み、現場を歩き続けた人です。

そして1965年、69歳のとき。経営危機に陥っていた東芝の社長に、外部から招かれます。

当時の東芝は、名門でありながら組織が硬直し、派閥と前例主義に沈んでいました。

就任にあたって、彼が社員に告げた言葉が、あまりにも有名です。

社員諸君にはこれまでの3倍、働いてもらう。役員にはその10倍働いてもらう。私はそれ以上に働く

3倍、10倍、それ以上。

数字だけ見れば、いまの労働環境でそのまま真似できる言葉ではありません。

けれど、本質は労働時間ではないと思います。順序です。

下に一番少なく、上にいくほど多く。そしてトップが最も重い。

普通の組織は、逆になりがちです。上にいくほど楽になる。だから下も動かない。

土光は、それを最初にひっくり返しました。

メザシの土光さん

そして彼を語るとき、必ず出てくるのがこの姿です。

財界のトップに立ち、経団連会長を務め、日本経済を動かす立場にありながら、自宅での食事は、めざしと、めしと、味噌汁。

テレビ番組でその生活が紹介され、「メザシの土光さん」として国民に知られるようになりました。

質素なのは、演出ではありません。彼の収入の大半は、母が創立した学園へ寄付されていました。

彼の言葉です。

個人は質素に、社会は豊かに

自分の取り分を最小にする。そのうえで、人には要求する。

これは月曜の出光佐三と、同じ構造をしています。

出光は「先に守る」ことで要求できる立場を得た。土光は「先に自分が削る」ことで要求できる立場を得た。

要求する前に、自分が払っている。

これが「言わなくても動く」の、もう一つの型です。

84歳で、国を相手にする

土光の凄みは、ここから先です。

1981年、彼は84歳で第二次臨時行政調査会の会長に就きます。

行政改革です。国鉄、電電公社、専売公社の民営化を含む、大変な仕事でした。

84歳。普通なら引退どころか、とっくに現場を離れている年齢です。

そして彼は、この仕事を無報酬で引き受けたと伝わります。

痛みを伴う改革を、国民に求める立場です。そのとき、自分が報酬を得ていたら、言葉に力が宿らない。

先週ご紹介した伊能忠敬が55歳で最初の一歩を踏み出したように、土光は84歳で、いちばん重い仕事を引き受けました。

彼が残した言葉があります。

行動をともなわない信念は無力である

昨日の中江藤樹が説いた「知行合一」が、そのまま昭和の財界に現れているように見えます。

そして、こうも言っています。

人生とは毎日が訓練である。わたし自身の訓練の場である。失敗もできる訓練の場である。生きていることが既に訓練であることを知る

80を過ぎて、まだ自分を訓練の途中だと言っている。

「量」ではなく「順序」を受け取る

ここで、正直な線引きが必要だと思います。

「3倍働け」を、そのまま現代の現場に持ち込むことはできません。労働時間の規制もあります。月曜に見たように、人手不足で人が辞めていく時代です。

では、何を受け取るべきか。

量ではなく、順序です。

いちばんきつい部分を、誰が最初に引き受けているか。

雨の日の段取り。面倒な調整の電話。誰もやりたがらない片付け。

これを上の人間が先に取っているチームは、言わなくても動きます。

もう一つ、土光が示したのは、取り分を先に減らすという手でした。

自分の分け前を、最後に回す。これができる人には、不思議と人がついてきます。

大野耐一が「なぜ」を五回くり返して現場に立ち続けたのもそうですが、この世代の人たちは、まず自分が現場にいました。

おわりに

今日から持ち帰れることを、三つだけ。

1つめ。いちばんきつい一件を、自分が取ること。

今日の仕事のなかで、誰もやりたがらないものを一つ探して、黙って自分がやる。宣言はしない。

2つめ。取り分を、最後に回すこと。

時間でも、手柄でも、休みでも。先に自分の分を確保しない。それだけで、空気が変わります。

3つめ。まだ訓練中だと思っておくこと。

84歳が「毎日が訓練」と言っています。完成したと思った瞬間に、人は伸びなくなります。

——あなたのチームで、いちばん面倒な仕事は、いま誰が持っているでしょうか。

(「個人は質素に」を、江戸時代の大名がやっていました。上杉鷹山「伝国の辞」――自分が去ったあとも、効き続けるものを残す)

(土光の「私はそれ以上に働く」を、今週の他の4人との共通点から振り返るまとめ記事です。5人の賢者――「やれ」と言う前に、彼らが済ませていたこと)


この生き方を、もっと深く

土光敏夫という人に、もう少し近づきたい方へ。三冊、置いておきます。

『[新装版]土光敏夫 信念の言葉』 語録から入る一冊。「行動をともなわない信念は無力である」も「個人は質素に、社会は豊かに」も、この系統の言葉です。引用のストックとして手元に置くのに向いています。

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『経営の行動指針 新訂——土光語録』(産業能率大学出版部・土光敏夫) 本人の著書。現場感のある実務論で、精神論だけで終わらないところが土光らしい一冊です。

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『海賊とよばれた男(上)(下)』(講談社文庫・百田尚樹) 月曜の出光佐三をモデルにした長編。昭和の経営者2人を並べて読むと、「先に払う」という共通点が見えてきます。

▶ 楽天で見る(紙の本):上巻 / 下巻


人物プロフィール:土光敏夫(どこう・としお)

1896年〜1988年。実業家。岡山県御津郡大野村(現在の岡山市北区)生まれ。

東京高等工業学校(現在の東京工業大学)を卒業後、石川島造船所に入社。技術者としてタービン開発に携わり、石川島播磨重工業の社長を務めた。

1965年、経営危機にあった東芝の社長に外部から招かれ、「社員諸君にはこれまでの3倍、役員にはその10倍、私はそれ以上に働く」と宣言して再建にあたった。1974年から1980年まで経済団体連合会(経団連)会長。

1981年、84歳で第二次臨時行政調査会(土光臨調)会長に就任し、国鉄・電電公社・専売公社の民営化を含む行政改革を主導した。財界トップにありながら質素な食生活を続け、収入の多くを母が創立した学園に寄付。「メザシの土光さん」と呼ばれた。1988年、91歳で死去。

参考:ウィキペディア「土光敏夫」

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和を敬い × 人を育て × 道を歩む。

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土光敏夫率先垂範メザシの土光さん行政改革
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