wa-iku.com
道の章

成功とは、99%の失敗に支えられた1%――本田宗一郎が教える、挑戦する勇気

「失敗が怖くて動けない」あなたへ。本田宗一郎いわく、成功とは99%の失敗に支えられた1%。倒れるたびに起き上がった経営者に、挑戦する勇気を学びます。

※本記事にはプロモーション(アフィリエイト広告)を含みます。
小さな町工場の作業台と、扉の外へまっすぐ続く一本道(イメージ挿絵:和育道)
小さな町工場の作業台と、扉の外へまっすぐ続く一本道(イメージ挿絵:和育道)

やってみたいことがある。でも、失敗するのが怖い。

新しい挑戦。慣れないこと。うまくいく保証のないもの。

「失敗したら、恥をかく」「時間もお金も無駄になる」「どうせ自分には無理かもしれない」――そう考えているうちに、結局、何もしないまま一日が終わる。

その気持ちは、よく分かります。失敗は、痛い。できれば避けたい。

でも――もし「失敗こそが、成功の材料だ」と言い切った人がいたとしたら、どうでしょう。しかも、世界的な成功をおさめた人が。

町工場から一代で世界的メーカーを築いた男、本田宗一郎(ほんだ そういちろう)です。

学歴も、資産も、後ろ盾もなかった

本田宗一郎は、HONDAの創業者です。バイク、自動車、そして飛行機まで手がける世界的ブランドを、一代で築き上げました。

けれど、その出発点は、決して恵まれてはいませんでした。

大学も出ていない。資産も、後ろ盾もない。彼が持っていたのは、機械への尽きない情熱と、失敗を恐れない挑戦心だけでした。

そんな彼が、なぜ、あれほどの成功をおさめられたのか。

その答えは、彼が「失敗」というものを、どう捉えていたかにあります。

「成功とは、99%の失敗に支えられた1%だ」

本田宗一郎の、最も有名な言葉の一つが、これです。

「成功とは、99%の失敗に支えられた1%だ」

私たちは、成功者を見ると、つい思ってしまいます。「あの人は才能があった」「運が良かった」と。

けれど本田は言います。成功の裏には、その何十倍もの失敗があるのだ、と。

彼自身、数え切れない失敗を経験しました。作った製品が売れない。開発が行き詰まる。資金繰りに苦しみ、何度も危機に直面する。

しかし彼は、その失敗を、隠しませんでした。それどころか、堂々とこう語ったのです。

「私がやった仕事で、本当に成功したものは、全体のわずか1%にすぎない。99%は失敗の連続だった」

世界的な成功者が、自分の失敗を、恥じるどころか誇るように語る。ここに、本田宗一郎の凄みがあります。

失敗を恥じない。失敗から学ぶ。失敗を糧にする。この姿勢こそが、彼を偉大な経営者にしたのです。

「何もしないこと」を、恐れろ

本田には、もう一つ、背中を押してくれる言葉があります。

「チャレンジして失敗を恐れるよりも、何もしないことを恐れろ」

失敗は、怖い。けれど本田は、もっと怖いものがある、と言います。

それは、「何もしないこと」です。

失敗を恐れて挑戦しなければ、たしかに失敗はしません。けれど同時に、成長も、成功も、そこには生まれない。

何もしないことは、一見「安全」に見えます。でも実は、いちばん危険なことなのです。なぜなら、そこには未来がないから。

本田は、社員たちにも挑戦を求めました。そして、挑戦した結果の失敗を、決して責めませんでした。むしろ、挑戦せずに無難に済ませようとする者こそを、良しとしなかったのです。

失敗を許す文化があるからこそ、人は大胆に挑戦できる。その挑戦の積み重ねが、世界を驚かせる製品を生みました。

「得意な人に、任せる」――一人で抱え込まない

そして、本田の強さは「技術」だけではありませんでした。人の活かし方が、また見事だったのです。

本田は、技術者としても天才でした。けれど彼は、自分一人の力には限界があることを、よく知っていました。

象徴的なのが、藤沢武夫という「経営の人」と組んだことです。本田は技術に専念し、経営は藤沢に任せた。自分の苦手な分野は、信頼できる人に、思い切って委ねたのです。

一人ですべてを抱え込まない。適材適所で、人を活かす。

本田は、人がいちばん喜びを感じ、大きな力を発揮するのは、その能力を認められ、思い切って任されたときだと考えていました。だからこそ、仲間にも社員にも、大胆に任せた。

人の能力を認め、発揮させる。それが、人を育てるということ。

これは、松下幸之助の「長所を見て伸ばす」吉田松陰の「個性を見抜く」とも、ぴたりと重なります。時代も分野も違う"人を育てる名人"たちが、そろって同じ真理にたどり着いているのは、偶然ではないのでしょう。

今を生きる私たちへ

本田宗一郎の生き方は、経営者だけのものではありません。何かに挑戦したい、すべての人に効きます。

失敗を、恥ではなく「材料」と捉える。 うまくいかなかったとき、「恥ずかしい」で終わらせず、「ここから何を学べるか」と問う。失敗の数だけ、成功に近づいていきます。

「何もしない安全」を、疑う。 挑戦しなければ失敗もしません。でも、それは"安全"ではなく、ただ止まっているだけ。動かないことのほうが、長い目で見れば大きなリスクです。

一人で、抱え込まない。 苦手なことは、得意な人に任せる。それは逃げではなく、賢い選択です。人の力を借りられる人ほど、遠くまで行けます。

倒れても、また立ち上がる。 これがいちばん大切かもしれません。本田も、倒れるたびに起き上がった人でした。一度の失敗で終わりではない。立ち上がった回数こそが、その人の強さです。

すぐに立ち上がれない日は、渡辺和子さんの「咲けない日は、根を張る日」という教えも思い出してください。立ち上がる力を、静かに蓄える時期もあっていいのです。

失敗を恐れて何もしないより、挑戦して失敗するほうが、はるかに価値がある。本田宗一郎の人生そのものが、それを証明しています。

おわりに

本田宗一郎は、社長を退くとき、後継者に自分の親族を一切入れませんでした。

多くの創業者が会社を「家業」として親族に継がせる時代に、彼は実力主義を貫いたのです。「会社は個人のものではない、社会のものだ」という信念からでした。

そんな彼が、遺した言葉があります。

「私の最大の光栄は、一度も失敗しないことではなく、倒れるたびに起き上がったことにある」

失敗しないことが、偉いのではありません。失敗しても、そのたびに立ち上がることが、偉いのです。

倒れても、また立ち上がる。失敗しても、また挑戦する。その繰り返しが、人を成長させ、大きな成果を生んでいきます。

今日、一つでいい。失敗を恐れず、新しいことに挑戦してみる。

その小さな挑戦の積み重ねが、いつか、99%の失敗に支えられた、輝く1%の成功を作っていくのだと思います。

(本田宗一郎の「挑む」を、他の4組の賢者との"共通点"から振り返るまとめ記事「分かっているのに、動けない」を終わらせるも公開しています)

(本田さんと同じ時代、「まずやってみる」の魂で国産車への道を切り拓いた人がいます。「できない」という前に、まずやってみろ――豊田喜一郎が、道なき道を切り拓いた言葉も、あわせてどうぞ。)


この経営者を、もっと知りたい方へ

本田宗一郎の言葉は、飾り気がなく、まっすぐです。

彼自身の言葉をまとめた本を読むと、失敗を恐れず挑戦し続けた人生の熱量が、そのまま伝わってきます。何かに一歩を踏み出したいとき、背中を押してくれる一冊です。

彼がどんな失敗の山を越えてHONDAを築いたかを知った今なら、その一言一言が、より力強く胸に響くはずです。

『やりたいことをやれ』(PHP研究所・本田宗一郎) 本田宗一郎自身の言葉を集めた一冊。飾らない言葉の一つひとつから、失敗を恐れず挑戦し続けた人生の熱量がまっすぐ伝わってきます。

楽天で見る(紙の本)


人物プロフィール:本田宗一郎

氏名:本田宗一郎(ほんだ そういちろう) 生没年:1906年(明治39年)― 1991年(平成3年)/静岡県生まれ(現・浜松市周辺) 分野:技術者・実業家 主な事績:本田技研工業(HONDA)創業者

経歴・功績

  • 鍛冶屋の子として生まれ、高等小学校を卒業後、東京の自動車修理工場に丁稚奉公。機械いじりに没頭しながら技術を身につけた。
  • 独立してピストンリング製造などを手がけたのち、1948年に本田技研工業を設立。
  • 自転車に補助エンジンを取り付けた製品から出発し、オートバイメーカーとして急成長。1959年にはマン島TTレースに挑戦し、数年で世界の頂点に立った。
  • 経営面では、盟友・藤沢武夫と役割を分担。本田が技術、藤沢が経営を担う体制で会社を世界的企業へと育てた。
  • 四輪車事業にも参入し、独自のエンジン技術などでHONDAを世界的ブランドに押し上げた。
  • 1973年、社長を退任。後継者に親族を入れず、実力主義を貫いたことでも知られる。
  • 「失敗を恐れず挑戦する」精神は、今も多くの技術者・経営者に受け継がれている。
  • ひとことで:学歴も後ろ盾もない町工場から、失敗を恐れぬ挑戦を重ねて世界的メーカーを一代で築き、「倒れるたびに起き上がった」ことを最大の誇りとした技術者・経営者。

    参考:ウィキペディア「本田宗一郎」

    現場監督 × バスケットボールコーチ × 地域活動家

    ~すべては、愛から~

    和を敬い × 人を育て × 道を歩む。

    和育道~wa-iku~

    タグ

    本田宗一郎挑戦失敗HONDA
    ← 記事一覧へ