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大事な決断を前にして、迷う。
損か得か。勝てるか勝てないか。周りにどう思われるか。前例はあるか――。いろんな物差しが頭の中を飛び交って、かえって決められなくなる。
そんな経験は、誰にでもあると思います。
情報を集めれば集めるほど、判断は難しくなる。理屈をこねればこねるほど、答えは遠ざかっていく。
では、迷いを断ち切る「たった一つの物差し」があるとしたら――どうでしょうか。
その物差しを持っていた経営者がいます。一代で二つの世界的企業を築き、さらに経営破綻した巨大企業まで再生させた人。稲盛和夫(いなもり かずお)さんです。
一つの言葉で、すべてを決めた
稲盛さんは、京セラとKDDI(第二電電)という二つの大企業を創業しました。さらに78歳のとき、経営破綻した日本航空(JAL)の再建を、無報酬で引き受け、わずか2年8か月で再上場へと導いています。
まさに「経営の神様」と呼ぶにふさわしい実績です。
けれど、彼が本当に伝えたかったのは、経営のテクニックではありませんでした。「人として、どう生きるべきか」という、生き方そのものの哲学でした。
そして稲盛さんが、重要な判断のたびに、必ず自分に問いかけた言葉があります。
「動機善なりや、私心なかりしか」
その動機は、善なるものか。そこに、自分だけの利益を求める私心はないか――。
半年間、毎晩自分に問い続けた
この言葉の重みを、よく伝える逸話があります。
稲盛さんが第二電電(現KDDI)を創業しようとしたとき、通信事業は、巨大なNTTの独占状態でした。そこへ挑むのは、無謀とも言える挑戦です。
彼は、決断する前に、半年間、毎晩、自分にこう問い続けました。
「動機善なりや」――新しい通信会社を作るのは、国民の通信料金を安くしたいという、純粋な思いからか。 「私心なかりしか」――そこに、自分が有名になりたい、儲けたいという私心は、まぎれていないか。
半年間、問い続けて。「これは世のため、人のためだ。私心はない」と心から確信できたとき、初めて彼は挑戦を決意しました。
そして第二電電は成功し、日本の通信料金は大きく下がったのです。
決断のスピードを競う時代に、半年も自問を続ける。その慎重さの裏にあったのは、「動機さえ正しければ、道は必ず開ける」という、確信でした。
「人として正しいか」――子どもの頃に教わったこと
稲盛さんの判断基準は、驚くほどシンプルでした。
「人間として、何が正しいか」
これを、あらゆる判断のものさしにしたのです。
経営には、複雑な理論や高度な戦略がつきものだと思われています。けれど稲盛さんは違いました。彼が基準にしたのは、幼い頃に親や周りの大人から教わった、素朴な道徳でした。
正直であれ。嘘をつくな。欲張るな。人に迷惑をかけるな――。
子どもの頃に教わった「人として当たり前のこと」を守る。それが、経営でも人生でも、最も確実な判断基準だ、と彼は考えました。
複雑に考える必要はない。「人として正しいか」を問えばいい。この素朴な基準を貫く経営が、結果として京セラを世界的企業へと育てたのです。
(道徳と経済は対立しない――この考え方は、土地の値段が上がると、私たちは幸せになるのか――渋沢栄一が問い続けたことで書いた、渋沢栄一の「論語と算盤」とまっすぐ響き合います。)
「利他の心」――人のためが、巡って自分に返る
そして、稲盛哲学の核心にあるのが「利他(りた)の心」です。
利他とは、他人のために尽くすこと。
自分だけが良ければいい、という利己の心ではなく、相手を思いやる利他の心で判断し、行動する。それが結果として、自分にも良い結果をもたらす――。稲盛さんは、そう説きました。
彼がJALを再建できたのも、この利他の心があったからでした。
78歳という年齢で、しかも畑違いの航空業界の再建を、無報酬で引き受けた。その動機は、「日本経済のため」「JALの社員のため」という、利他の思いでした。損得だけで動く人には、決してできない選択です。
その姿勢が、JALの社員たちの心を動かし、奇跡的な再建を実現させました。
稲盛さんは、こうも語っています。利他の心で判断すると、視野が広くなり、周りが見えてくる、と。
自分の利益だけを考えると、視野は狭くなります。けれど、人のためを思った瞬間、私たちはより大きな視点から物事を見られるようになる。だからこそ、正しい判断ができるのです。
(「人のために尽くしたものが、巡って自分に返る」というこの考え方は、「小さな努力なんて無駄」と思ったとき――二宮尊徳が遺した『積小為大』の力で書いた、二宮尊徳の「推譲(すいじょう)」の精神と深く通じています。)
今を生きる私たちへ
稲盛さんの羅針盤は、経営者だけのものではありません。迷いながら生きる、私たち全員に効きます。
迷ったら、「損か得か」の前に「動機は善いか」と問う。 得を基準にすると、判断はブレます。動機を基準にすると、判断に一本の芯が通る。この問い一つで、選択の質が変わります。
「私心はないか」と、自分に正直になる。 立派な理由の裏に、「認められたい」「儲けたい」という私心が隠れていないか。それを正直に見つめるだけで、判断はぐっと澄んできます。
難しく考えず、「人として正しいか」に立ち返る。 複雑な状況ほど、素朴な基準が効きます。正直か、誠実か、人に迷惑をかけていないか。子どもの頃に教わったことは、大人になっても最強の物差しです。
自分の得だけでなく、「相手のためになるか」を一つ加える。 利他は、きれいごとではありません。人のためを思うと視野が広がり、結果的に、より良い判断ができる。めぐりめぐって、自分にも返ってきます。
決断に迷ったとき、たくさんの物差しはいりません。「その動機は、善いか。私心はないか」。この一つを、そっと自分に問うだけでいいのです。
おわりに
稲盛和夫さんは、2022年、90歳で世を去りました。
二つの世界的企業を築き、破綻した巨大企業を救った人が、最後に遺したのは、経営のノウハウではありませんでした。「人として、正しく生きる」という、拍子抜けするほど素朴な教えでした。
けれど、その素朴さこそが、いちばん難しく、いちばん強い。
損得や、他人の評価や、複雑な理屈に流されそうになったとき。彼の羅針盤を、そっと思い出したいと思います。
「動機善なりや、私心なかりしか」
その一問が、迷いの霧を晴らし、進むべき方向を、静かに指し示してくれるはずです。
(稲盛さんの生き方を、他の4賢者との"共通点"から振り返るまとめ記事歴史に名を残す人と、忘れられる人の違いは、たった一つだったも書きました。)
(若き日の稲盛さんが「雷に打たれた」という松下幸之助のダム経営の逸話は、余裕は、必要になってからでは作れない――松下幸之助「ダム経営」の教えで書いています。あわせてどうぞ。)
この経営者を、もっと知りたい方へ
稲盛和夫さんの哲学が、最もやさしく、深くまとまっているのが『生き方』という一冊です。
経営書というより、「人としてどう生きるか」を説いた人生哲学の本で、世界累計で数百万部を超えて読み継がれています。仕事に迷ったとき、生き方に迷ったとき、何度でも立ち返れる一冊です。彼がどんな挑戦の果てにこの境地に至ったかを知った今なら、一つひとつの言葉が、より深く胸に届くはずです。
稲盛和夫『新版 生き方 人間として一番大切なこと』(サンマーク出版) 稲盛哲学が最もやさしく深くまとまった人生論の決定版。165万部を超えて読み継がれるロングセラーです。
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人物プロフィール:稲盛和夫
氏名:稲盛和夫(いなもり かずお) 生没年:1932年(昭和7年)― 2022年(令和4年)/鹿児島県鹿児島市生まれ 分野:実業家・経営者 主な事績:京セラ創業者、KDDI(第二電電)創業者、日本航空(JAL)名誉会長
経歴・功績
ひとことで:二つの世界的企業を創業し、破綻した巨大企業まで再生させながら、最後まで「人として正しく生きる」という素朴な哲学を貫いた経営者。
