※本記事にはプロモーション(アフィリエイト広告)を含みます。

本日ご紹介するのは、日本のかたちを、自分の足で確かめた人です。
あの偉業だけを見ると、遠い人に思えます。けれどこの人の本当のすごさは、それを始めた歳にありました。
さて、いくつだったのでしょうか。
新しいことを始めたい。けれど、もう遅い気がする。
資格でも、競技でも、商売でも。「あと10歳若ければ」という言葉を、聞いたことのない大人はいないと思います。
50年先を選ぶには、若さがいるのではないか。41年かけるには、残り時間が要るのではないか。
この「もう遅い」に、真正面から答えを出した人がいます。
まず、一つ目の人生を完走した
伊能忠敬(いのう・ただたか)。1745年に生まれ、1818年に亡くなりました(73歳没)。『大日本沿海輿地全図』をつくった人です。
上総国小関村——いまの千葉県九十九里の生まれ。6歳で母を亡くし、17歳で佐原(いまの香取市)の伊能家に婿入りします。
家業は酒造と米穀商。このとき伊能家は傾いていました。
忠敬はここから、黙々と家業の立て直しにかかります。
天明の大飢饉のときには私財を投じて村人を救い、その行いを評価されて苗字帯刀を許されました。49歳で隠居するまでに残した家産は、三万両ともいわれます。
つまり彼は、まず「立派な商人」として、一つの人生を完走しているのです。
先日ご紹介した石田梅岩の「先も立ち、我も立つ」を、そのまま生きたような前半生でした。
普通なら、ここで終わりです。隠居して、孫の顔を見て、静かに余生を送る。
しかし忠敬は、50歳で江戸に出ます。
19歳年下の師に、頭を下げた
江戸で彼が門を叩いたのは、幕府天文方・高橋至時のところでした。
このとき至時、31歳。忠敬、50歳。
19歳年下の師に、弟子入りしたのです。
ここが、私はいちばん好きです。
家産三万両を築き、村では名士として敬われ、苗字帯刀まで許された人物が、31歳の若者に頭を下げて教えを乞う。
プライドが一瞬でも出たら、できないことです。
塙保己一が「残された一点を掘る」人だったとすれば、忠敬は「ゼロから習い直せる」人でした。
そして彼には、どうしても解きたい問いがありました。
地球の大きさを、知りたい。
当時、地球が丸いことは分かっていました。けれど、その大きさは分からない。正確に測るには、遠く離れた二点間の距離を実測する必要がありました。
そこで彼が考えたのが、江戸と蝦夷地(いまの北海道)の距離を測ること。ただし当時、幕府の許可なく自由に旅はできません。
そこで掲げた名目が——「日本の沿岸地図をつくる」でした。
つまり、あの偉大な日本地図は、はじめは目的ではなく口実だったのです。
17年、4万キロ
1800年、第一次測量。忠敬、55歳。蝦夷地の測量です。費用は、ほとんど自腹でした。
その後、第十次まで。足かけ17年。
歩いた距離は、およそ4万キロ。地球一周に相当します。
日によっては一日40キロを歩き、夜は宿で天体観測を行い、昼間の測量結果と突き合わせて誤差を修正する。
60代、70代の話です。
彼の言葉として語り継がれているのが、この一言です。
歩け、歩け。続けることの大切さ
飾りがまったくありません。だからこそ、重い。
イチローの「小さいことを積み重ねるのが、とんでもないところへ行くただ一つの道」と、武蔵の「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす」と、完全に同じ場所に立っている言葉だと思います。
完成を、見ないまま
1818年、忠敬は73歳で亡くなります。
地図の完成を、見ないままでした。
未完の地図は弟子たちが引き継ぎ、3年後の1821年、『大日本沿海輿地全図』として幕府に提出されます。
ちなみに1821年は、塙保己一が亡くなった年でもあります。江戸の同じ空の下で、41年の男と17年の男が、それぞれの仕事を終えていました。
自分の代で完成を見なくても、仕事は続く。
弟子に渡る形まで作り込んであったから、地図は完成したのです。
おわりに
今日から持ち帰れることを、三つだけ。
1つめ。頭を下げられるか。
忠敬は19歳年下に弟子入りしました。教わる姿勢を持てることが、本当の調和だと思います。年下の選手から、若い仲間から、学べているでしょうか。
2つめ。完成を見なくてもいい仕事をすること。
忠敬は地図の完成を見ずに亡くなり、弟子が引き継ぎました。育てるとは、自分の代で終わらない仕事を渡していくことです。
3つめ。一歩目に、年齢制限はないということ。
55歳の一歩目が、17年後に日本の形になりました。
「もう遅い」は、たいてい事実ではなく、気分です。
——あなたが「もう遅い」と思って棚に上げていることは、何でしょうか。
(「自分の代で完成を見なくてもいい仕事」の、もう一つの形です。上杉鷹山「伝国の辞」――自分が去ったあとも、効き続けるものを残す)
(完成を見届けられないまま続けた人の、もう一つの形です。宮沢賢治「教師をやめて、田んぼに降りた」――見届けられなくても、やるのか)
(同じ「17年」を、海の中で数えた人もいます。御木本幸吉「17年、海に沈め続けた」――3年で「向いていない」と決めていないか)
この生き方を、もっと深く
忠敬の17年を、もう少し近くで眺めたい方へ。二冊、置いておきます。
『伊能忠敬 日本を測量した男』(河出文庫・童門冬二) 商人として一つ目の人生を完走し、50歳で弟子入りするまでの前半生から描いた一冊。歴史小説家の筆なので、年表ではなく「その日、何を思っていたか」のほうが見えてきます。
もう一冊。今日の「歩け、歩け」と並べて読んでほしい本です。
『五輪書』(岩波文庫・宮本武蔵/渡辺一郎 校注) 「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす」。武蔵の万日と、忠敬の4万キロ。ジャンルは違えど、同じ歩き方をした二人です。
人物プロフィール:伊能忠敬(いのう・ただたか)
1745年〜1818年。江戸時代後期の商人・測量家。上総国小関村(現在の千葉県山武郡九十九里町)生まれ。
17歳で下総国佐原(現在の千葉県香取市)の伊能家に婿入りし、傾いていた家業(酒造・米穀商)を立て直す。天明の大飢饉では私財を投じて村人を救い、苗字帯刀を許された。49歳で隠居。
50歳で江戸に出て、19歳年下の幕府天文方・高橋至時に暦学・天文学を学ぶ。1800年、55歳で蝦夷地の測量に出発。以後17年間・第十次にわたる測量で歩いた距離は約4万キロにのぼる。
1818年、73歳で死去。未完だった地図は弟子たちに引き継がれ、1821年に『大日本沿海輿地全図』として幕府に提出された。その精度は、明治期の実測地図にも生かされたと伝えられる。
