和育道〜wa-iku〜
道の章

伊能いのう忠敬ただたか――55歳の一歩目が、日本の形になった

Tadataka Ino — Merchant turned surveyor, Japan (1745–1818) Read in English ↓

50年先を選ぶには、若さがいるのではないか。41年かけるには、時間が要るのではないか。「もう遅い人はどうするのか」という問いに、真正面から答えを出した人がいます。最初の測量に出たのは55歳。その前に、19歳年下の天文学者へ弟子入りしていました。そこから17年、歩いた距離はおよそ4万キロ——地球一周ぶん。「もう遅い」は、たいてい事実ではなく気分です。

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夜明けの海岸沿いの道を、測量の道具を提げて歩く旅装の後ろ姿(イメージ挿絵:和育道)
夜明けの海岸沿いの道を、測量の道具を提げて歩く旅装の後ろ姿(イメージ挿絵:和育道)

本日ご紹介するのは、日本のかたちを、自分の足で確かめた人です。

あの偉業だけを見ると、遠い人に思えます。けれどこの人の本当のすごさは、それを始めた歳にありました。

さて、いくつだったのでしょうか。

新しいことを始めたい。けれど、もう遅い気がする。

資格でも、競技でも、商売でも。「あと10歳若ければ」という言葉を、聞いたことのない大人はいないと思います。

50年先を選ぶには、若さがいるのではないか。41年かけるには、残り時間が要るのではないか。

この「もう遅い」に、真正面から答えを出した人がいます。

まず、一つ目の人生を完走した

伊能忠敬(いのう・ただたか)。1745年に生まれ、1818年に亡くなりました(73歳没)。『大日本沿海輿地全図』をつくった人です。

上総国小関村——いまの千葉県九十九里の生まれ。6歳で母を亡くし、17歳で佐原(いまの香取市)の伊能家に婿入りします。

家業は酒造と米穀商。このとき伊能家は傾いていました。

忠敬はここから、黙々と家業の立て直しにかかります。

天明の大飢饉のときには私財を投じて村人を救い、その行いを評価されて苗字帯刀を許されました。49歳で隠居するまでに残した家産は、三万両ともいわれます。

つまり彼は、まず「立派な商人」として、一つの人生を完走しているのです。

先日ご紹介した石田梅岩の「先も立ち、我も立つ」を、そのまま生きたような前半生でした。

普通なら、ここで終わりです。隠居して、孫の顔を見て、静かに余生を送る。

しかし忠敬は、50歳で江戸に出ます。

19歳年下の師に、頭を下げた

江戸で彼が門を叩いたのは、幕府天文方・高橋至時のところでした。

このとき至時、31歳。忠敬、50歳。

19歳年下の師に、弟子入りしたのです。

ここが、私はいちばん好きです。

家産三万両を築き、村では名士として敬われ、苗字帯刀まで許された人物が、31歳の若者に頭を下げて教えを乞う。

プライドが一瞬でも出たら、できないことです。

塙保己一が「残された一点を掘る」人だったとすれば、忠敬は「ゼロから習い直せる」人でした。

そして彼には、どうしても解きたい問いがありました。

地球の大きさを、知りたい。

当時、地球が丸いことは分かっていました。けれど、その大きさは分からない。正確に測るには、遠く離れた二点間の距離を実測する必要がありました。

そこで彼が考えたのが、江戸と蝦夷地(いまの北海道)の距離を測ること。ただし当時、幕府の許可なく自由に旅はできません。

そこで掲げた名目が——「日本の沿岸地図をつくる」でした。

つまり、あの偉大な日本地図は、はじめは目的ではなく口実だったのです。

17年、4万キロ

1800年、第一次測量。忠敬、55歳。蝦夷地の測量です。費用は、ほとんど自腹でした。

その後、第十次まで。足かけ17年。

歩いた距離は、およそ4万キロ。地球一周に相当します。

日によっては一日40キロを歩き、夜は宿で天体観測を行い、昼間の測量結果と突き合わせて誤差を修正する。

60代、70代の話です。

彼の言葉として語り継がれているのが、この一言です。

歩け、歩け。続けることの大切さ

飾りがまったくありません。だからこそ、重い。

イチローの「小さいことを積み重ねるのが、とんでもないところへ行くただ一つの道」と、武蔵の「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす」と、完全に同じ場所に立っている言葉だと思います。

完成を、見ないまま

1818年、忠敬は73歳で亡くなります。

地図の完成を、見ないままでした。

未完の地図は弟子たちが引き継ぎ、3年後の1821年、『大日本沿海輿地全図』として幕府に提出されます。

ちなみに1821年は、塙保己一が亡くなった年でもあります。江戸の同じ空の下で、41年の男と17年の男が、それぞれの仕事を終えていました。

自分の代で完成を見なくても、仕事は続く。

弟子に渡る形まで作り込んであったから、地図は完成したのです。

おわりに

今日から持ち帰れることを、三つだけ。

1つめ。頭を下げられるか。

忠敬は19歳年下に弟子入りしました。教わる姿勢を持てることが、本当の調和だと思います。年下の選手から、若い仲間から、学べているでしょうか。

2つめ。完成を見なくてもいい仕事をすること。

忠敬は地図の完成を見ずに亡くなり、弟子が引き継ぎました。育てるとは、自分の代で終わらない仕事を渡していくことです。

3つめ。一歩目に、年齢制限はないということ。

55歳の一歩目が、17年後に日本の形になりました。

「もう遅い」は、たいてい事実ではなく、気分です。

——あなたが「もう遅い」と思って棚に上げていることは、何でしょうか。

(「自分の代で完成を見なくてもいい仕事」の、もう一つの形です。上杉鷹山「伝国の辞」――自分が去ったあとも、効き続けるものを残す)

(完成を見届けられないまま続けた人の、もう一つの形です。宮沢賢治「教師をやめて、田んぼに降りた」――見届けられなくても、やるのか)

(同じ「17年」を、海の中で数えた人もいます。御木本幸吉「17年、海に沈め続けた」――3年で「向いていない」と決めていないか)


この生き方を、もっと深く

忠敬の17年を、もう少し近くで眺めたい方へ。二冊、置いておきます。

『伊能忠敬 日本を測量した男』(河出文庫・童門冬二) 商人として一つ目の人生を完走し、50歳で弟子入りするまでの前半生から描いた一冊。歴史小説家の筆なので、年表ではなく「その日、何を思っていたか」のほうが見えてきます。

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もう一冊。今日の「歩け、歩け」と並べて読んでほしい本です。

『五輪書』(岩波文庫・宮本武蔵/渡辺一郎 校注) 「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす」。武蔵の万日と、忠敬の4万キロ。ジャンルは違えど、同じ歩き方をした二人です。

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人物プロフィール:伊能忠敬(いのう・ただたか)

1745年〜1818年。江戸時代後期の商人・測量家。上総国小関村(現在の千葉県山武郡九十九里町)生まれ。

17歳で下総国佐原(現在の千葉県香取市)の伊能家に婿入りし、傾いていた家業(酒造・米穀商)を立て直す。天明の大飢饉では私財を投じて村人を救い、苗字帯刀を許された。49歳で隠居。

50歳で江戸に出て、19歳年下の幕府天文方・高橋至時に暦学・天文学を学ぶ。1800年、55歳で蝦夷地の測量に出発。以後17年間・第十次にわたる測量で歩いた距離は約4万キロにのぼる。

1818年、73歳で死去。未完だった地図は弟子たちに引き継がれ、1821年に『大日本沿海輿地全図』として幕府に提出された。その精度は、明治期の実測地図にも生かされたと伝えられる。

参考:ウィキペディア「伊能忠敬」

ENGLISH SUMMARY

Tadataka Ino — Merchant turned surveyor, Japan (1745–1818)

“Walk, and walk. What matters is to keep going.”

— Attributed to Ino / English translation by WA-IKU

Where he lived: Sawara, Chiba Prefecture

He ran a sake and rice business for thirty years and retired at 49.

At 50 he moved to Edo and studied astronomy under a teacher 19 years younger.

He began surveying at 55 and walked about 40,000 km to map the shape of Japan.

働き盛りの会社員 × バスケコーチ × 地域活動家

~すべては、愛から~

和を敬い × 人を育て × 道を歩む。

和育道~wa-iku~

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伊能忠敬大日本沿海輿地全図挑戦継続
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