
本日も、偉人ではなく私の畑の話です。
先日、トウモロコシの話を書きました。今日は同じ畑の、別の作物です。
こちらは、思った以上に穫れました。
ただ、うれしかった話だけでは終わりませんでした。
さて、何があったのでしょうか。
株を持ち上げたら、ぶら下がっていた
ジャガイモは、掘るまで分かりません。
地上に出ているのは葉と茎だけです。下に何個ついているのか、大きいのか小さいのか、掘ってみるまで見えない。
株ごと持ち上げたとき、根にゴロゴロぶら下がっているのが見えました。
めちゃくちゃ穫れた、というのが正直な感想です。思っていたより、ずっと多かった。

大きいものは、手のひらいっぱいになりました。
でも、大きさはバラバラだった

掘り進めていくと、株によってまったく違いました。
思った以上についているところもあれば、意外と小さいものばかりのところもある。
同じ日に、同じ畑に植えたはずなのに、です。
ここで思いました。
育てているあいだの手間を、もう少し増やしていたら。土寄せの回数、水のやり方、雑草の取り方。
そのひと手間ずつが、たぶんこの差になっている。
トウモロコシのときは「土(土台)」の話でした。今回わかったのは、その次にある「栽培(育成)」の話です。
土台を作っただけでは足りない。作ったあと、どれだけ手をかけ続けるか。
売っているものを、食べていただけだった

これが、今年いちばん強く思ったことです。
私はこれまで、お店に並んでいるジャガイモを買って、食べていただけでした。
大きさが揃っていて、傷がなくて、土が落ちていて、袋に入っている。
あれが当たり前だと思っていました。
自分で掘ってみて、はじめて分かりました。
あの「当たり前」を作るために、どれだけの手間がかかっているのか。
手間ひまをかけないと、いい物はできません。
農家さんは、それを毎年、桁違いの規模でやっている。
作る側に一度でも回ってみると、買う側だったときには見えなかったものが見えます。
近江商人の「三方よし」を、掘りながら思い出した
近江商人の「三方よし」は、売り手よし・買い手よし・世間よし——三方が立ってこそ商いだ、という考え方です。
この言葉を、私はずっと「売る側の心得」として読んでいました。
けれど今年、掘りながら思ったのは逆のことでした。
買い手の側が、売り手の手間を知らないままだと、三方よしは成り立たないのではないか。
値段の裏に何時間分の作業があるのか。それを想像できる買い手が増えたとき、はじめて売り手も立てる。
作る側の苦労を知ることは、買う側の礼儀でもあるのだと思いました。
そして、腐らせた
正直に書きます。
穫れた量が多すぎました。
配りました。保存もしました。それでも追いつかず、置きすぎて腐らせてしまったものがあります。
育てたものを捨てるのは、想像していたよりこたえました。
来年は、食べられる分だけ作ろうと思っています。
たくさん穫ることが目的ではなかった。ここも、やってみるまで分かりませんでした。
老子の「上善は水の如し」を書いたとき、頑張りすぎて空回りする話をしました。
畑でも同じでした。量を増やすことと、うまくいくことは、別のことでした。
おわりに
今日から持ち帰れることを、三つだけ。
1つめ。土台を作ったあとの、手間の話。
土を整えるのは入口です。そのあとどれだけ手をかけ続けるかで、質が変わります。仕事も、チームも、たぶん同じです。
2つめ。買う側から、作る側へ一度回ってみること。
一度でも作る側に立つと、値段の見え方が変わります。人への見方も変わります。
3つめ。多く穫ることが、目的ではないということ。
抱えきれない量は、結局こぼれます。自分が扱える量を知っておくのは、弱気ではなく設計です。
——あなたが「当たり前」だと思って受け取っているものは、誰の手間でできているでしょうか。
いつかこれが、売り物になる日が来たらおもしろいなと思っています。
まずは来年、食べられる分だけ。そこからです。
