※本記事にはプロモーション(アフィリエイト広告)を含みます。

本日ご紹介するのは、地域を足元から支えた一人の日本人です。
名前を聞いても、ピンとこないかもしれません。
けれど、この人が遺した仕組みは、たぶん今日も、あなたの暮らしの中で動いています。
さて、どんな人だったのでしょうか。
困っている人がいる。何かしてあげたい。
けれど、何をすればいいのか分からない。お金を渡す? 物を届ける? 話を聞く?
そして、こうも思います。「その場しのぎで、本当に助けになるのだろうか」と。
この問いに、生涯をかけて答えを出した日本人がいます。
しかも彼が出した答えは、今も私たちの生活の中で動き続けています。
生協。農協。労働金庫。共済。
これらの礎を築いた人物――賀川豊彦(かがわ とよひこ)です。
「どうせ死ぬのなら、最も貧しい人々の中で」
賀川豊彦は1888年、神戸の裕福な家に生まれました。
けれど4歳で両親を失い、親戚に引き取られたものの、複雑な家庭環境の中で孤独に育ちます。
中学時代にキリスト教と出会い、信仰の道へ進みました。
そして神学校在学中の1909年、彼は驚くべき決断をします。
神戸の新川という、当時最悪と言われたスラム街に、単身で移り住んだのです。
21歳。しかも彼は結核を患い、余命わずかと診断されていました。
どうせ死ぬのなら、最も貧しい人々の中で死にたい。
彼が住んだのは、四畳半の狭い部屋。そこに、行き場のない人々を次々と迎え入れました。
病人、物乞い、身寄りのない子ども。時には、罪を犯した人も。
自分の食事を分け与え、病人を看病し、時に殴られながらも、彼はそこに住み続けました。
そして、この生活は――14年間続きます。
余命わずかと言われた彼は、結果的に71歳まで生きました。
「施しでは、貧困は解決しない」
スラムでの生活を通じて、賀川はある結論にたどり着きます。
施しでは、貧困は解決しない。
食べ物を与えれば、その日は救えます。けれど翌日には、また同じ状況に戻ってしまう。
必要なのは、人々が自分の力で立てる仕組みでした。
そこで彼が着目したのが、「協同組合」という考え方です。
一人では弱い。けれど、集まれば力になる。
賀川は、日本各地でこの仕組みを広めていきました。
現在の生活協同組合、農業協同組合、労働金庫、共済制度。これらの多くは、彼の活動を源流としています。
そして、賀川の思想を一言で表す言葉として、いまも語り継がれているのが、これです。
愛は、組織化されなければならない。
同情や善意は、尊いものです。けれど、それだけでは続きません。
善意を、持続する仕組みに変える。
驚くべきことに、これはグラミン銀行を創設したムハマド・ユヌスと、まったく同じ発想です。しかも賀川は、ユヌスより70年も早く、同じ結論にたどり着いていました。(ムハマド・ユヌスの記事はこちら)
100万部の印税を、すべて社会へ
1920年、賀川は自伝的小説『死線を越えて』を出版します。
スラムでの経験を綴ったこの作品は、爆発的に売れました。上巻だけで、わずか1年のうちに100万部を超えたといわれます。続編とあわせて400万部という説もある、当時としては異例の大ベストセラーでした。
けれど賀川は、その印税をほぼ全額、社会事業に投じました。
スラムでの活動資金、労働運動、農民運動、協同組合の設立へ。自分の生活は、質素なままでした。
そして1923年、関東大震災が起こります。
賀川は即座に東京へ向かい、被災者の支援に奔走しました。
さらにこの経験から、「災害への備え」の重要性を痛感し、共済制度の普及に力を注ぐようになります。
一人の悲劇を、仕組みで防ぐ。
これが、彼の一貫した思想でした。
まず、目の前の一人と共に生きる
賀川の思想の中心には、常に「隣人愛」がありました。
けれど彼の言う隣人愛は、抽象的なものではありません。
目の前にいる、具体的な一人への愛でした。
「遠くの一万人より、目の前の一人」という言葉が、彼の姿勢を表すものとして伝えられています。
スラムで、彼は目の前の一人を助け続けました。そしてその経験から、社会全体を変える仕組みを考えた。
ここで大切なのは、順序です。
まず、目の前の一人と共に生きる。そこから、社会の仕組みを構想する。
理論から入ったのではありません。現場から始まったのです。
机の上で考えるのではなく、その場に身を置くことから本質が見えてくる。ニューヨークの一人の住民が、街を歩き回って得た確信で巨大な高速道路計画を止めた話とも、まっすぐつながります。(ジェイン・ジェイコブズ「通りの目」の記事はこちら)
賀川は、スラムに14年間住みました。だからこそ、本当に必要な仕組みが分かったのです。
今を生きる私たちへ
賀川の生き方は、私たちの日常にも、そのまま生きます。
まず、同じ場に立ってみる。 外から見て考えるのと、その場に身を置くのとでは、見えるものがまったく違います。相手の立場に「なってみる」ことが、本当に必要なことを教えてくれます。
その場しのぎより、続く形を考える。 一度きりの親切も尊い。けれど「次も困らない形」を一緒に作れたら、その助けはずっと続きます。
社会を語る前に、目の前の一人を。 大きな理想を語ることより、隣にいる人を大切にするほうが、はるかに難しく、はるかに価値があります。
一人ではできないことを、みんなで。 一人では弱くても、集まれば力になる。これは、協同組合だけでなく、あらゆる集まりの原理です。
おわりに
賀川豊彦は、生涯で膨大な活動を残しました。
農民組合の創設、労働運動、生協運動、共済制度、そして戦後は世界平和の運動へ。ノーベル平和賞の候補にも、繰り返し名前が挙がりました。
彼が生涯をかけて証明しようとしたのは、たった一つのことだったのだと思います。
人は、共に生きられる。
一人では弱い。けれど、支え合えば強くなれる。
その信念が、日本中に協同の仕組みを広げました。
そして今、私たちが当たり前に使っている生協も、共済も、農協も、その源流にはこの思想があります。
商いの世界にも、同じ考え方を三百年前から受け継いできた人たちがいました。売り手よし、買い手よし、世間よし。自分だけが得をする形は、長続きしないという知恵です。(近江商人「三方よし」の記事はこちら)
私たちの地域にある集まりも、実は同じ構造を持っています。
祭りも、消防団も、自治会も。すべては「共に生きる」ための仕組みです。
正直に言えば、私も地域の行事に関わっていて、しんどいと感じる年があります。人が集まらない。段取りが増える。誰かがやらないと回らない。
けれど賀川の話を知って、あの面倒くささの正体が少し分かった気がしました。あれはたぶん、百年前の誰かが作ってくれた「共に生きるための仕組み」を、次の人に渡すための手間なのだ、と。
賀川が広めた協同組合には、いまも受け継がれている言葉があります。
一人は万人のために、万人は一人のために。
今日、誰かのために動くこと。
その小さな積み重ねが、次の世代の「当たり前」を作っていきます。
(賀川の「善意を仕組みに変える」を、他の4人との共通点から振り返るまとめ記事です。5人の賢者――「頑張れ」と言わなかった彼らが、代わりに変えたもの)
あわせてどうぞ:同じように、貧しさのただなかで半世紀を過ごした人の話はマザー・テレサ「愛は家庭から」――手を合わせたあと、身近な人の顔を見る。
この人物を、もっと知りたい方へ
賀川自身が書いた『死線を越えて』は、いまも読むことができます。
ご紹介するのは、賀川の著作を集めた選集の第1巻です。『死線を越えて』と、その続編にあたる『太陽を射るもの』が収められています。
1920年(大正9年)に書かれた文章がそのまま残っているので、決して読みやすい本ではありません。けれど、スラムでの日々が、飾らない筆致でそこにあります。理想を語る本ではなく、実際にそこで生きた人の記録として読むと、その重みがまったく違って感じられます。
生協や共済がどこから生まれたのかを知った今なら、私たちの日常が、少し違って見えてくるはずです。
『賀川豊彦著作選集① 死線を越えて・太陽を射るもの』(賀川豊彦/『賀川豊彦著作選集』刊行編集委員会 編)
なお、賀川の生涯を歴史のなかに位置づけた評伝として、隅谷三喜男『賀川豊彦』(岩波現代文庫)があります。ただ、いまは新刊での入手が難しく、古書は状態も価格もまちまちなので、ここでのご案内は控えます。図書館で見かけたら、ぜひ手に取ってみてください。
人物プロフィール:賀川豊彦
経歴・功績
ひとことで:余命わずかと診断された21歳でスラムに移り住み、14年間そこで暮らした末に「善意を仕組みに変える」ことを選び、日本中に協同の仕組みを広げた社会運動家。
