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どうしても敵わない相手が、いる。
体格でも、才能でも、環境でも。どれだけ努力しても、生まれ持ったもので、最初から差がついている。そう感じて、悔しい思いをしたことはありませんか。
その悔しさは、たいてい、そのまま飲み込むしかありません。
けれど――その悔しさを出発点にして、世界200以上の国と地域に広がるものを作り上げた日本人がいます。
嘉納治五郎(かのう じごろう)。柔道の創始者です。
いじめられていた、体の小さな少年
意外に思われるかもしれませんが、嘉納治五郎は、体が小さく、虚弱な少年でした。
大人になっても身長は158センチほどの、小柄な体だったと伝えられています。
東京の学校に進んだ嘉納は、体格に恵まれた同級生たちに、いじめられました。学業では負けない。それなのに、力ではまるで歯が立たない。
その悔しさが、彼を武術へと向かわせます。
「小よく大を制す」
小さな者が、大きな者を制する技がある――そう聞いた嘉納は、柔術の門を叩きました。
けれど当時、柔術は「時代遅れの技術」と見なされ、教える道場すら少なくなっていました。ようやく入門を許された嘉納は、猛烈に稽古します。夜中に夢中で技をかけ、布団を投げ飛ばしていた、という逸話まで残っているほどです。
そして18歳の頃には、体格で勝る相手を、次々と投げられるようになりました。
けれど――嘉納は、そこで満足しませんでした。
彼は考えたのです。この柔術という技には、勝ち負けを超えた、もっと大きな価値があるのではないか、と。
畳12畳、門下生9人から始まった
1882年、22歳の嘉納は、東京・下谷の永昌寺という小さな寺の一室で、講道館を開きます。
畳12畳。門下生は、わずか9人。
これが、柔道の始まりでした。
そしてここで嘉納が行ったのは、革命的なことでした。
それまでの柔術は、相手を倒すための実戦技術です。流派ごとに秘伝があり、危険な技も多く含まれていました。
嘉納は、さまざまな流派の技を研究し、危険な技を取り除き、安全に稽古できる体系へと再構築しました。
そして、名前を変えたのです。
「柔術」から「柔道」へ。
「術」は、技術。「道」は、生き方。
この一文字の違いに、彼の思想のすべてが凝縮されています。
嘉納は説きました。強くなること自体が目的ではない。強くなる過程で人間を磨き、その力で社会に貢献する。それこそが、柔道の究極の目的なのだ、と。
「精力善用」と「自他共栄」
嘉納が柔道の根本原理として掲げた言葉が、二つあります。
一つ目は、「精力善用(せいりょくぜんよう)」。
自分の持つ心身の力を、最も有効に、善い方向に使う、という意味です。
人が持てるエネルギーには、限りがあります。それを無駄に使うのではなく、最も効果的に、そして正しい目的のために使う。
柔道の技術そのものが、この原理でできています。力任せに相手を倒すのではなく、相手の力を利用し、最小の力で最大の効果を生む。
そして嘉納は、この原理を、人生全体に応用せよと説きました。自分の時間、体力、才能を、何のために使うのか。それを常に問い、最も善い使い方を選ぶ。
二つ目は、「自他共栄(じたきょうえい)」。
自分と他人が、共に栄える、という意味です。
柔道は、一人ではできません。相手がいて、初めて稽古が成り立つ。だから相手は「敵」ではなく、共に成長する仲間なのです。
相手を敬い、感謝し、共に高め合う。それが柔道の精神である――嘉納は、そう語りました。
だから柔道では、試合の前後に必ず礼をします。相手への敬意を、目に見える形で表すのです。
この「自他共栄」の考え方は、近江商人の「三方よし」とも深く通じます。自分だけが勝つのではなく、共に栄える。日本の思想の根底に、静かに流れている考え方です。
本業は、教育者だった
意外と知られていませんが、嘉納の本業は、教育者でした。
東京高等師範学校――現在の筑波大学――の校長を、前後3回・通算23年余りにわたって務めたと伝えられます。ここは全国の教師を養成する学校でしたから、嘉納の教育思想は、日本中の教師を通じて広まっていきました。
彼はまた、外国人留学生の受け入れにも力を注いだ教育者でした。自ら学校(弘文学院)を設けて中国からの留学生を受け入れ、その中には、後に中国近代文学の父となる魯迅もいました。
さらに嘉納は、日本人初のIOC委員となり、日本のオリンピック初参加を実現させます。
そして1936年、IOC総会で1940年東京オリンピックの招致に成功しました。
けれど――その2年後の1938年、エジプト・カイロでのIOC総会からの帰国の途上、船の中で肺炎により亡くなります。享年77。
さらにその2年後、戦争の影響で東京オリンピックは返上され、嘉納の夢は幻に終わりました。
自らが招致した五輪を、彼は見ることができなかったのです。
今を生きる私たちへ
嘉納の思想は、柔道家だけのものではありません。何かを教える人、何かに打ち込む人すべてに効きます。
「術」で終わらせず、「道」にする。 技術やスキルだけを追うと、それは“使える道具”で終わります。けれど、それを通じて自分の生き方を磨こうとした瞬間、同じ営みが“道”に変わります。仕事も、趣味も、子育ても。この歩みは、千利休の「守破離」とも深く響き合います。
自分の力を、何に使うかを問う。 精力善用。時間も体力も才能も有限です。最小の力で最大の効果を、そして“善い方向”に。この二つを意識するだけで、日々の選択が変わります。
相手を「敵」ではなく「共に成長する仲間」と見る。 ライバル、競合、意見の合わない人。彼らがいるから、自分は磨かれます。敬意を形にすること――挨拶、礼、感謝の一言――は、思っている以上に大きな力を持ちます。
ハンデを、出発点にする。 158センチの少年が抱いた悔しさが、世界へ広がる「道」の原点になりました。今の不利は、いつか何かの始まりかもしれません。
おわりに
嘉納治五郎が偉大だったのは、強い格闘技を作ったからではありません。
彼は、「勝つための技術」を「人を育てる教育」へと昇華させたのです。
(この「勝敗を超えて人を育てる」という信念は、バスケットボールの名将ジョン・ウッデンの記事でも書いています。あわせてどうぞ。)
そして、この思想があったからこそ、柔道は世界へ広がりました。もし彼が単に「強い格闘技」を作っただけなら、ここまでの広がりはなかったでしょう。「人間形成の道」という普遍的な価値があったからこそ、国境を越えて受け入れられたのです。
嘉納は、柔道をこう定義しています。
「柔道は、心身の力を最も有効に使用する道である」
技の話ではなく、「道」だと言い切ったのです。
畳の上で学んだこと――投げられても、また立ち上がる。相手を敬う。力の使い方を考える。そのすべてが、道場を出たあとの人生で生きてきます。
何かを教えるとき、私たちが本当に手渡しているのは、技術だけではないのかもしれません。
困難への向き合い方。人との関わり方。自分の力の使い方。
それを渡せたとき、「術」は静かに「道」へと変わっていくのだと思います。
(嘉納の「稽古の積み重ね」を、他の4人との“共通点”から振り返るまとめ記事歴史に名を刻んだ5人は、全員「持たざる者」だったも、あわせてどうぞ。)
この人物を、もっと知りたい方へ
嘉納治五郎の生涯と思想は、柔道の枠を超えた「教育の書」として読むことができます。
体の小さな少年が、いかにして「術」を「道」に変え、オリンピックを日本に呼ぶまでに至ったのか。嘉納研究の第一人者(筑波大学教授)による評伝が、その歩みを生き生きと描いています。指導する立場の人、何かに打ち込んでいる人にとって、確かな指針になる一冊です。
『嘉納治五郎 オリンピックを日本に呼んだ国際人』(潮文庫・真田久) 柔道の創始から教育、オリンピック招致まで――「柔道の父」の生涯を第一人者がやさしく描いた評伝の入門書。
158センチの少年が世界に何を遺したかを知った今なら、その言葉が、より深く胸に届くはずです。
人物プロフィール:嘉納治五郎
経歴・功績
ひとことで:体の小さな少年だった悔しさを出発点に、武術を「人間教育の道」へと生まれ変わらせた柔道の創始者。勝つためではなく、人を育てるために「術」を「道」に変えた教育者。
