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本日ご紹介するのは、いま日本中の教科書に載っている人です。
けれど生きているあいだに売れた本は、ほとんどありませんでした。
さて、どんな人だったのでしょうか。
昨日の川淵三郎は、町にクラブを置きました。
では——その一人が、生きているうちに成果を見られなかったら、どうなのか。
今日は、そちらの話です。
質屋の店先で、見ていたもの
宮沢賢治(みやざわ・けんじ)。1896年に生まれ、1933年に亡くなりました(37歳没)。詩人であり、童話作家であり、農業技師でもあった人です。
岩手県花巻の生まれ。実家は質屋と古着商を営む、裕福な家でした。
ここが彼の出発点になります。
質屋とは、貧しい農民が着物や農具を持ち込む場所です。
賢治は少年時代、店先でその光景を毎日見ていました。
自分の家の豊かさが、目の前の人の困窮の上に成り立っている。
この違和感が、彼の生涯を決めたと言われています。
盛岡高等農林学校で土壌と肥料を学び、卒業後は農学校の教師になりました。
授業は評判だったそうです。生徒と劇をやり、レコードを聴かせ、野山を歩いた。給料もよく、本人も「一生で一番楽しかった」と振り返っています。
ところが1926年、30歳のとき。
彼は、教師を辞めます。
言っていることと、やっていることが違う
辞めた理由を、賢治はこう語ったと伝わります。
自分は生徒に「農民のために働け」と教えてきた。しかし自分自身は、農民から離れた場所で給料をもらっている。
言っていることと、やっていることが違う。
先週の中江藤樹が説いた「知行合一」が、ここでも出てきます。知っていることと、やっていることが一致していなければ意味がない。
賢治は花巻郊外の下根子桜に移り、独居自炊の生活を始めました。
そして立ち上げたのが、羅須地人協会(らすちじんきょうかい)です。
田を作りながら、音楽を聴かせた
やったことは、詩人のイメージとはかけ離れています。
農民に土壌学と肥料の設計を教える。無料で肥料の相談に応じる。自ら畑を耕す。
そのうえで、農民のためにレコードコンサートを開き、エスペラント語や芸術も教えました。
田を作りながら、音楽を聴かせたのです。
彼が『農民芸術概論綱要』に書いた、有名な一節があります。
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
そして、こうも書きました。
われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である
農業指導と芸術を、分けなかった。
食えるようになることと、美しさに触れること。この二つを、同じひとつのこととして扱った。
ここが賢治の、いちばん独特なところだと思います。
2年で、終わった
しかし、この活動は長く続きませんでした。
無理がたたり、賢治は肺を病みます。1928年、協会の活動は事実上停止。実家に戻り、療養生活に入りました。
一時は回復して石灰肥料の技師として働きますが、再び倒れ、1933年、37歳で亡くなります。
生前に出版された本は、詩集『春と修羅』と童話集『注文の多い料理店』の2冊だけ。
どちらも、ほとんど売れませんでした。自費出版で、在庫を抱えたまま亡くなっています。
いま、日本中の教科書に載り、童話が読み継がれ、花巻は「賢治の町」と呼ばれています。
その風景を、本人はまったく見ていません。
見届けられるとは、限らない
ここに、今週のテーマのいちばん苦い側面があります。
一人が始めたことが、町の風景を変える。
ただし、その一人が見届けられるとは限らない。
先週の伊能忠敬も、地図の完成を見ずに亡くなりました。
けれど伊能には、引き継ぐ弟子がいました。賢治には、それすらほとんどいなかった。
活動は2年で止まり、本は売れず、病に倒れて終わった。
本人の実感としては、失敗だったかもしれません。
それでも残ったのはなぜか。
たぶん、彼が「言っていることとやっていることを、一致させた」からだと思います。
教師をやめて田んぼに降りた人が書いた「世界がぜんたい幸福にならないうちは」だから、100年経っても読まれている。
言葉が残るかどうかは、その人がどう生きたかで決まる。そういうことなのだと思います。
おわりに
今日から持ち帰れることを、三つだけ。
1つめ。言っていることと、やっていることを近づけること。
全部を一致させるのは無理です。でも、いちばん大きなズレを一つだけ直す、ならできます。
2つめ。食えることと、美しさを、分けないこと。
賢治は、肥料の相談に乗りながらレコードをかけました。実利と潤いは、どちらか一方ではありません。
3つめ。見届けられなくても、やること。
自分の代で完成しない仕事に、手をつけられるか。ここが分かれ目です。
——あなたがいま、いちばん「言っていることとやっていることがズレている」のは、どこでしょうか。
(見届けられるかどうかの前に、まず17年沈め続けた人がいます。御木本幸吉「17年、海に沈め続けた」――3年で「向いていない」と決めていないか)
(賢治の「田んぼに降りた2年」を、今週の他の4人との共通点から振り返るまとめ記事です。5人の賢者――その一人は、たいてい無名だった)
この生き方を、もっと深く
賢治に、もう少し近づきたい方へ。二冊、置いておきます。
『新編 銀河鉄道の夜』(新潮文庫・宮沢賢治) まずは作品から。「ほんとうのさいわいは一体何だろう」という問いが、そのまま羅須地人協会の思想につながっています。
『中江藤樹『翁問答』』(致知出版社) 「知行合一」の原典に近い一冊。賢治が教師を辞めた理由と、同じ場所を指しています。
人物プロフィール:宮沢賢治(みやざわ・けんじ)
1896年〜1933年。詩人・童話作家・農業技師。岩手県稗貫郡里川口村(現在の岩手県花巻市)生まれ。
実家は質屋と古着商。盛岡高等農林学校で土壌学と肥料を学び、卒業後は農学校の教師となる。授業は評判が高かったが、1926年、30歳で退職した。
花巻郊外の下根子桜に移って独居自炊の生活に入り、羅須地人協会を設立。農民への肥料設計の指導や無料相談を行いながら、レコードコンサートや芸術・語学の講義も開いた。
1928年に病を得て活動は停止。1933年、37歳で死去した。生前に出版されたのは詩集『春と修羅』と童話集『注文の多い料理店』の2冊のみで、いずれも自費出版だった。没後に評価が広がり、『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』などが読み継がれている。
賢治が歩いた場所



