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本日ご紹介するのは、田んぼと山しかない土地に線路を敷いて、そこに町ごと作ってしまった人です。
名前を知らなくても、関西に行けば、この人が作った景色の中を歩くことになります。
さて、どんな人だったのでしょうか。
人がいない。だから商売にならない。
お客さんが来ない、若い人が減った、この地域ではもう無理だ——そういう話を、あちこちで聞きます。
数字で見ても、そのとおりではあります。
いま日本で静かに進んでいる問題のひとつが、空き家です。
国土交通省は2024年6月に「不動産業による空き家対策推進プログラム」を策定しました。空き家の売買で、仲介手数料の上限を引き上げる制度です。売却価格800万円以下の空き家について、上限が30万円(税込33万円)まで認められるようになりました。
なぜそんな制度が要るのか。理由は単純です。空き家は、手間ばかりかかって儲からないからです。
残置物があり、権利関係が複雑で、売買価格は数十万円。プロが動く経済的な理由がありません。だから放置される。放置されるから、町の風景が傷んでいく。
制度ができて2年が経ちました。それでも空き家は減っていません。
家が余っている時代です。
その反対の時代——家が足りず、そもそも人が住んでいない土地に、ゼロから町をつくった人がいます。
30代半ばで、無職になった
小林一三(こばやし・いちぞう)。1873年に生まれ、1957年に亡くなりました(84歳没)。阪急電鉄の創業者です。
山梨県韮崎の生まれ。慶應義塾を出て三井銀行に入りますが、出世コースからは外れていました。
30代半ば、証券会社の設立話に乗って大阪へ出ます。ところが、その話が頓挫。
無職になりました。
そこで彼が引き受けたのが、誰も欲しがらなかった案件でした。
箕面有馬電気軌道。大阪の梅田から、北の山あいへ向かう鉄道の計画です。
沿線には、田んぼと山しかない。人が住んでいないのだから、乗る客もいない。
投資家は誰も乗ってきませんでした。
普通なら、諦める場面です。
けれど一三は、問題の立て方のほうを変えました。
乗る人がいないなら、乗る人が住む町を、先につくればいい。
沿線に、暮らしを敷いていく
彼がやったことは、いまから見れば当たり前に見えます。しかし当時は、どれも前例がありませんでした。
1つめ。住宅地を分譲する。
池田室町に、庭付きの一戸建てを開発しました。しかも日本で初めて、月賦での販売を採り入れています。
当時、家は現金で買うものでした。サラリーマンには手が届かない。そこを、制度のほうから崩したわけです。
2つめ。行楽地をつくる。
終点の側に温泉場を開き、1913年には唱歌隊を立ち上げました。のちの宝塚少女歌劇です。
平日は通勤客、休日は行楽客。線路を、両方向に働かせました。
3つめ。駅の上に、百貨店を建てる。
1929年、梅田の駅上に阪急百貨店。世界で初めての、ターミナルデパートです。
駅を「通過する場所」から「行く場所」に変えました。
結果、田んぼと山しかなかった沿線に、住宅地ができ、学校ができ、商店ができ、人が住み着きました。
一人の構想が、関西の地図を書き換えたのです。
金がないから何もできない、という人間は
彼が残した言葉で、いちばん有名なのがこれです。
金がないから何もできないという人間は、金があっても何も出来ない人間である
耳が痛い言葉です。
一三自身が、無職から始めています。資金も、後ろ盾もなかった。
足りないのは金ではなく、問題の立て方だ、と言っているのだと思います。
もうひとつ、若い人に伝えたい言葉があります。
下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。そうしたら、誰も君を下足番にしておかぬ
誰も欲しがらなかった鉄道計画を引き受けた人の言葉として読むと、重みが違います。
彼は実際に、「誰もやりたがらない案件」の担当として、日本一になった人でした。
先日ご紹介した出光佐三が、仕事がゼロの日に「仕事をつくれ」と言ったのも、同じ場所から出ている言葉だと思います。
「ない」のか、「まだ作っていない」のか
空き家の問題を、一三の目で見直すと、景色が変わります。
いまの議論の多くは、「どう処分するか」です。
けれど一三なら、こう問うでしょう。
ここに住みたくなる理由を、まだ誰も作っていないだけではないか。
実際、空き家を「売る」のではなく、空き家と、そこで何かを始めたい人を結びつける取り組みが、各地で出てきています。
家が余っているのではなく、始める理由が足りていない。
これは、私たちの日々の仕事にもそのまま当てはまります。
「需要がない」と言うとき、本当に無いのか。それとも、まだ作っていないだけなのか。
一三は、線路を敷いてから客を待ったのではありません。客が住む理由のほうを、先に作りました。
おわりに
今日から持ち帰れることを、三つだけ。
1つめ。「ない」を「まだ作っていない」に置き換えてみること。
需要がない、人がいない、金がない。言い換えるだけで、次の一手が変わります。
2つめ。誰もやりたがらない案件を、ひとつ取ること。
一三が引き受けたのは、投資家が逃げた計画でした。そこにしか、独占はありません。
3つめ。ひとつのものを、両方向に働かせること。
平日は通勤、休日は行楽。手持ちの資産を、二つの用途で使えないか。今日の現場でも考えてみたいところです。
——あなたが「需要がない」と思っていることは、本当に無いのでしょうか。
(沿線に「住む理由」を先に作った一三と同じことを、現代のスポーツでやった人がいます。川淵三郎「クラブに、企業名を入れさせない」――そのチームは、誰のものか)
(一三の「住む理由をつくる」を、今週の他の4人との共通点から振り返るまとめ記事です。5人の賢者――その一人は、たいてい無名だった)
この構想力を、もっと深く
小林一三という人を、もう少し近くで眺めたい方へ。三冊、置いておきます。
『小林一三 日本が生んだ偉大なる経営イノベーター』(中央公論新社・鹿島茂) 事業構想の全体像をつかむ一冊。鉄道・住宅・歌劇・百貨店が、ひとつの発想から出ていることが分かります。
『逸翁自叙伝 阪急創業者・小林一三の回想』(講談社・小林一三) 本人による回想。「下足番」の言葉が、どんな日々の中から出てきたのかまで辿れます。
『現代語訳 論語と算盤』(ちくま新書・渋沢栄一) 同じ時代に、事業と道徳を結び直そうとした人の一冊。渋沢栄一の道徳経済合一説と並べて読むと、時代の空気が見えてきます。
人物プロフィール:小林一三(こばやし・いちぞう)
1873年〜1957年。実業家。阪急電鉄(旧・箕面有馬電気軌道)の創業者。山梨県北巨摩郡韮崎(現在の山梨県韮崎市)生まれ。
慶應義塾を卒業後、三井銀行に入行。1907年、大阪での証券会社設立の話が頓挫して無職となったのち、出資者の集まらなかった箕面有馬電気軌道の設立に加わる。
沿線の住宅地開発(日本初の月賦販売)、終点側の行楽地開発、宝塚少女歌劇の創設、1929年の阪急百貨店(世界初のターミナルデパート)と、鉄道を軸に「乗る理由」を自ら作り出す事業を次々に手がけた。
のちに東宝の設立にも関わり、商工大臣も務めた。「金がないから何もできないという人間は、金があっても何も出来ない人間である」「下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ」の言葉で知られる。1957年、84歳で死去。
