
本日は偉人ではなく、地域の夏祭りの話です。
今年も、地元の夏祭りの運営に関わりました。
終わったあと、誰もいなくなったグラウンドに立って、しばらく動けませんでした。
さて、何を思っていたのでしょうか。
私がやっていたのは、車の誘導でした
華やかな仕事ではありません。
片付けをしながら、敷地内へ入ってくる車を誘導する。祭りが終われば、今度は出ていく車を誘導する。
屋台の車が入る。荷物が積まれる。また出ていく。その繰り返しです。
人が楽しんでいる時間、私はだいたい、駐車場のあたりにいました。
しんどい、とは思わなかった
正直に書くと、しんどいという感情は、ほとんどありませんでした。
事故なく安全に。予定どおりに。来てくれた人に楽しんでもらえるように。
考えていたのは、その三つだけです。そのために、ずっと気を張っていました。
気を張っているあいだは、疲れを感じる隙がないのだと思います。
唯一きつかったのは、ふと気が抜けた瞬間の睡魔でした。それだけですw
「お疲れ様でした」と言って回った
終わり際、車を送り出しながら、屋台の関係者の方々に声をかけあいました。
お疲れ様でした、と。
笑顔で返し、笑顔で返ってくるキャッチボール。
この人たちが来てくれなければ、お客さんが来てくれなければ、あの賑わいは無かった。人々がいての祭り、その一点でした。
誰もいなくなったグラウンド
全部の車が出ていって、静かになったグラウンドを見たとき、こう思いました。
今年も、終わったんだな。
ふける、という言葉がいちばん近い感覚です。達成感と、そこに混ざった寂しさのようなもの。
そして、次から次へと顔が浮かんできました。
打ち合わせの段階から、何度も時間を割いてくれた花火の業者さん。
運営に入ってくれた学生たち。
その学生たちを引っ張り束ねてくれた学生リーダー。
そして、表には出ないところでずっと支えてくれていた運営の方々。
感謝しかありませんでした。
祭りの「見えている時間」は、いちばん短い
祭りというのは、不思議な仕事です。
お客さんが見ているのは、提灯に火が入ってから花火が終わるまでの数時間です。

けれど実際には、何か月も前の打ち合わせから始まって、当日の朝の設営があって、終わったあとの片付けがある。
見えている時間が、いちばん短い。
この記事のいちばん上の写真は、開場前の会場です。
まだ誰もいません。けれど、この景色を作るために、もう何時間も人が動いています。
そして祭りが終われば、また同じように誰もいない景色に戻る。そこでも、人が動いています。
鍵山秀三郎の「凡事徹底」を思い出した
鍵山秀三郎さんの「凡事徹底」を、車を誘導しながら思い出していました。
平凡なことを徹底して行えば、非凡になる
鍵山さんが続けたのは、掃除でした。誰も見ていない場所を、誰も褒めない時間に整える仕事です。
祭りの片付けも、たぶん同じ種類の仕事です。
お客さんは片付けを見ません。翌朝、何ごともなかったようにグラウンドが元に戻っていることに、たいていの人は気づきません。
でも、気づかれないことが成功なのだと思います。
柳田國男の「ハレとケ」で、祭りは無駄ではないという話を書きました。
あのとき書ききれなかったことが、今年ようやく分かった気がします。
ハレの日を作っているのは、ケの日の積み重ねのほうだ、ということです。
おわりに
今日から持ち帰れることを、三つだけ。
1つめ。気を張っているうちは、疲れは来ないということ。
目的がはっきりしていると、人は思ったより動けます。逆に、何のためか分からない仕事は、量が少なくても重い。
2つめ。終わりに、声をかけて回ること。
「お疲れ様でした」の一言は、その場では流れていきます。けれど、来年もう一度来てくれるかどうかは、たぶんここで決まっています。
3つめ。見えない時間のほうが長い、と知っておくこと。
自分が誰かの祭りを楽しんでいるとき、その裏で誰かが気を張っています。そう思えるだけで、人に優しくなれる気がします。
——あなたが「今年も終わったな」と思う瞬間は、一年のうちのどこにあるでしょうか。

