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本日ご紹介するのは、ふるさとの海の色を変えてしまった人です。
しかも、その景色を96歳まで自分の目で見届けました。
さて、どんな人だったのでしょうか。
昨日の宮沢賢治は、自分の始めたことの結末を見届けられませんでした。
今日は、その正反対の人です。
そしてその人は、うどん屋の息子でした。
うどん屋の長男が、海に目をつけた
御木本幸吉(みきもと・こうきち)。1858年に生まれ、1954年に亡くなりました(96歳没)。真珠養殖の創始者で、「真珠王」と呼ばれた人です。
伊勢の鳥羽、うどん屋の長男として生まれました。
13歳のときに父が病に倒れ、家業を支えるために働き始めます。学問の道はありませんでした。
青物の行商をしながら、彼が目をつけたのが志摩の海の産物です。
当時、伊勢志摩では天然のアコヤ貝から、ごくまれに真珠が採れました。
けれど、それは偶然の産物です。何百個開けて、ひとつ出るかどうか。
しかも乱獲によって、アコヤ貝そのものが減り始めていました。
そこで彼は考えます。
偶然を、待たなくていいようにできないか。
真珠を、人の手で作れないか。
当時の常識では、正気の沙汰ではありませんでした。
赤潮で、全滅した
1888年、幸吉は英虞湾で真珠養殖の実験を始めます。
貝に核を入れ、海に沈め、待つ。開ける。失敗。
また入れ、沈め、待つ。開ける。失敗。
一回の実験に、数年かかることもあります。
そのうえ、この海には赤潮が来ます。
1892年、大規模な赤潮が発生。養殖していたアコヤ貝が、ほぼ全滅しました。
数年分の実験が、一夜で消えたのです。
借金は膨らみ、周囲からは「気が触れた」と言われました。
それでも彼は、拾い集めたわずかな生き残りの貝を、調べ続けます。
そして同じ1892年の暮れ、半円真珠の養殖に成功しました。貝殻の内側に張りついた、半分の真珠です。
それでも世界初でした。
しかし幸吉は、満足しません。
彼が欲しかったのは、まん丸の真珠でした。
17年
そこから、さらに13年かかります。
1905年、ついに真円真珠の養殖に成功しました。
最初の実験から、17年です。
ちなみに、この年もまた大規模な赤潮に襲われていました。
壊滅した貝を調べていて、真円真珠が見つかったのです。
最悪の日に、最大の発見があった。
これが御木本幸吉という人だと思います。
世界中の女性の首を
彼の有名な言葉があります。
世界中の女性の首を真珠で飾りたい
真珠は当時、王侯貴族だけのものでした。天然に頼るかぎり、数が増えないからです。
養殖に成功するということは、それを庶民の手に届く場所まで降ろす、ということでした。
今週の人たちを思い出してください。
小林一三は、家を月賦にしてサラリーマンの手に届かせた。川淵三郎は、プロクラブを地方都市に届かせた。賢治は、音楽を農民に届けた。
上にあるものを、下まで降ろす。
今週の人たちに共通する動きが、ここでもはっきり出ています。
そして幸吉が変えたのは、宝飾の世界だけではありませんでした。
英虞湾の風景そのものが変わりました。
湾一面に養殖いかだが並び、海女が貝を採り、町に加工場ができ、鳥羽・志摩は真珠の町になった。
うどん屋の息子が、ふるさとの海の色を変えたのです。
諦めない期間の、長さ
私が幸吉から受け取るのは、「諦めるな」ではありません。
諦めない期間の、長さです。
17年です。
そのあいだ、収入はほとんどありません。赤潮で全滅を経験しています。周囲からは笑われています。
いまの私たちの感覚だと、3年続かなければ「向いていない」と判断してしまいます。
でも幸吉の物差しで見れば、3年はまだ実験の一巡目です。
先週の伊能忠敬が17年歩き、塙保己一が41年編纂したのと、まったく同じ時間感覚です。
もうひとつ大事なのは、彼が赤潮の被害を調べ続けたことです。
全滅した貝を、投げ出さずに開けた。だから真円真珠が見つかった。
失敗の中身を見る人だけが、次を掴みます。
大野耐一の「なぜを五回」も、結局は同じことを言っています。
おわりに
今日から持ち帰れることを、三つだけ。
1つめ。失敗した現物を、必ず開けて見ること。
うまくいかなかった案件を、そのまま流さない。原因をひとつだけ書き出す。それだけで次が変わります。
2つめ。自分の物差しの単位を、確かめること。
3年で判断していないか。この仕事の一巡目は、本当は何年でしょうか。
3つめ。上にあるものを、下まで降ろすこと。
いま自分が持っているもので、誰かの手に届く場所まで降ろせるものはないか。
——あなたがいま「向いていない」と思っていることは、まだ一巡目ではないでしょうか。
(御木本の「17年」を、今週の他の4人との共通点から振り返るまとめ記事です。5人の賢者――その一人は、たいてい無名だった)
この粘りを、もっと深く
御木本幸吉の17年に、もう少し近づきたい方へ。二冊、置いておきます。
『御木本幸吉』(吉川弘文館・大林日出雄) 人物叢書の一冊。うどん屋の長男が真珠王になるまでを、資料に沿って追える評伝です。
『トヨタ生産方式 脱規模の経営をめざして』(ダイヤモンド社・大野耐一) 「なぜを五回」の原典。失敗した現物を開けて見る、という姿勢が、製造業の側から書かれています。
人物プロフィール:御木本幸吉(みきもと・こうきち)
1858年〜1954年。実業家。真珠養殖の創始者。志摩国鳥羽(現在の三重県鳥羽市)のうどん屋の長男として生まれる。
13歳で父が倒れて家業を支え、青物の行商などを経て、志摩の海産物を扱うようになる。天然真珠が偶然にしか採れないことと、アコヤ貝の乱獲を見て、真珠の養殖を志した。
1888年に英虞湾で実験を開始。1892年の赤潮でアコヤ貝がほぼ全滅する被害を受けながら、同年に半円真珠の養殖に成功。さらに実験を重ね、1905年に真円真珠の養殖に成功した。最初の実験から17年後のことである。
「世界中の女性の首を真珠で飾りたい」の言葉を残し、真珠を王侯貴族のものから広く手の届くものへ変えた。英虞湾には養殖いかだが並び、鳥羽・志摩は真珠の町となった。1954年、96歳で死去。
