和育道〜wa-iku〜
道の章

御木本みきもと幸吉こうきち「17年、海に沈め続けた」――3年で「向いていない」と決めていないか

Kokichi Mikimoto — Founder of the cultured pearl industry, from Toba, Japan (1858–1954) Read in English ↓

うどん屋の長男が、まん丸の真珠を人の手で作ると言い出しました。周囲からは「気が触れた」と言われ、赤潮で貝は全滅し、借金だけが膨らみます。それでも彼は、全滅した貝を開け続けました。最初の実験から成功まで17年。諦めない期間の長さの話です。

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日の出の湾で、浮き樽のあいだに浮かぶ白い磯着の海女たちの後ろ姿(イメージ挿絵:和育道)
日の出の湾で、浮き樽のあいだに浮かぶ白い磯着の海女たちの後ろ姿(イメージ挿絵:和育道)

本日ご紹介するのは、ふるさとの海の色を変えてしまった人です。

しかも、その景色を96歳まで自分の目で見届けました。

さて、どんな人だったのでしょうか。

昨日の宮沢賢治は、自分の始めたことの結末を見届けられませんでした。

今日は、その正反対の人です。

そしてその人は、うどん屋の息子でした。

うどん屋の長男が、海に目をつけた

御木本幸吉(みきもと・こうきち)。1858年に生まれ、1954年に亡くなりました(96歳没)。真珠養殖の創始者で、「真珠王」と呼ばれた人です。

伊勢の鳥羽、うどん屋の長男として生まれました。

13歳のときに父が病に倒れ、家業を支えるために働き始めます。学問の道はありませんでした。

青物の行商をしながら、彼が目をつけたのが志摩の海の産物です。

当時、伊勢志摩では天然のアコヤ貝から、ごくまれに真珠が採れました。

けれど、それは偶然の産物です。何百個開けて、ひとつ出るかどうか。

しかも乱獲によって、アコヤ貝そのものが減り始めていました。

そこで彼は考えます。

偶然を、待たなくていいようにできないか。

真珠を、人の手で作れないか。

当時の常識では、正気の沙汰ではありませんでした。

赤潮で、全滅した

1888年、幸吉は英虞湾で真珠養殖の実験を始めます。

貝に核を入れ、海に沈め、待つ。開ける。失敗。

また入れ、沈め、待つ。開ける。失敗。

一回の実験に、数年かかることもあります。

そのうえ、この海には赤潮が来ます。

1892年、大規模な赤潮が発生。養殖していたアコヤ貝が、ほぼ全滅しました。

数年分の実験が、一夜で消えたのです。

借金は膨らみ、周囲からは「気が触れた」と言われました。

それでも彼は、拾い集めたわずかな生き残りの貝を、調べ続けます。

そして同じ1892年の暮れ、半円真珠の養殖に成功しました。貝殻の内側に張りついた、半分の真珠です。

それでも世界初でした。

しかし幸吉は、満足しません。

彼が欲しかったのは、まん丸の真珠でした。

17年

そこから、さらに13年かかります。

1905年、ついに真円真珠の養殖に成功しました。

最初の実験から、17年です。

ちなみに、この年もまた大規模な赤潮に襲われていました。

壊滅した貝を調べていて、真円真珠が見つかったのです。

最悪の日に、最大の発見があった。

これが御木本幸吉という人だと思います。

世界中の女性の首を

彼の有名な言葉があります。

世界中の女性の首を真珠で飾りたい

真珠は当時、王侯貴族だけのものでした。天然に頼るかぎり、数が増えないからです。

養殖に成功するということは、それを庶民の手に届く場所まで降ろす、ということでした。

今週の人たちを思い出してください。

小林一三は、家を月賦にしてサラリーマンの手に届かせた。川淵三郎は、プロクラブを地方都市に届かせた。賢治は、音楽を農民に届けた。

上にあるものを、下まで降ろす。

今週の人たちに共通する動きが、ここでもはっきり出ています。

そして幸吉が変えたのは、宝飾の世界だけではありませんでした。

英虞湾の風景そのものが変わりました。

湾一面に養殖いかだが並び、海女が貝を採り、町に加工場ができ、鳥羽・志摩は真珠の町になった。

うどん屋の息子が、ふるさとの海の色を変えたのです。

諦めない期間の、長さ

私が幸吉から受け取るのは、「諦めるな」ではありません。

諦めない期間の、長さです。

17年です。

そのあいだ、収入はほとんどありません。赤潮で全滅を経験しています。周囲からは笑われています。

いまの私たちの感覚だと、3年続かなければ「向いていない」と判断してしまいます。

でも幸吉の物差しで見れば、3年はまだ実験の一巡目です。

先週の伊能忠敬が17年歩き、塙保己一が41年編纂したのと、まったく同じ時間感覚です。

もうひとつ大事なのは、彼が赤潮の被害を調べ続けたことです。

全滅した貝を、投げ出さずに開けた。だから真円真珠が見つかった。

失敗の中身を見る人だけが、次を掴みます。

大野耐一の「なぜを五回」も、結局は同じことを言っています。

おわりに

今日から持ち帰れることを、三つだけ。

1つめ。失敗した現物を、必ず開けて見ること。

うまくいかなかった案件を、そのまま流さない。原因をひとつだけ書き出す。それだけで次が変わります。

2つめ。自分の物差しの単位を、確かめること。

3年で判断していないか。この仕事の一巡目は、本当は何年でしょうか。

3つめ。上にあるものを、下まで降ろすこと。

いま自分が持っているもので、誰かの手に届く場所まで降ろせるものはないか。

——あなたがいま「向いていない」と思っていることは、まだ一巡目ではないでしょうか。

(御木本の「17年」を、今週の他の4人との共通点から振り返るまとめ記事です。5人の賢者――その一人は、たいてい無名だった)


この粘りを、もっと深く

御木本幸吉の17年に、もう少し近づきたい方へ。二冊、置いておきます。

『御木本幸吉』(吉川弘文館・大林日出雄) 人物叢書の一冊。うどん屋の長男が真珠王になるまでを、資料に沿って追える評伝です。

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『トヨタ生産方式 脱規模の経営をめざして』(ダイヤモンド社・大野耐一) 「なぜを五回」の原典。失敗した現物を開けて見る、という姿勢が、製造業の側から書かれています。

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人物プロフィール:御木本幸吉(みきもと・こうきち)

1858年〜1954年。実業家。真珠養殖の創始者。志摩国鳥羽(現在の三重県鳥羽市)のうどん屋の長男として生まれる。

13歳で父が倒れて家業を支え、青物の行商などを経て、志摩の海産物を扱うようになる。天然真珠が偶然にしか採れないことと、アコヤ貝の乱獲を見て、真珠の養殖を志した。

1888年に英虞湾で実験を開始。1892年の赤潮でアコヤ貝がほぼ全滅する被害を受けながら、同年に半円真珠の養殖に成功。さらに実験を重ね、1905年に真円真珠の養殖に成功した。最初の実験から17年後のことである。

「世界中の女性の首を真珠で飾りたい」の言葉を残し、真珠を王侯貴族のものから広く手の届くものへ変えた。英虞湾には養殖いかだが並び、鳥羽・志摩は真珠の町となった。1954年、96歳で死去。

参考:ウィキペディア「御木本幸吉」

ENGLISH SUMMARY

Kokichi Mikimoto — Founder of the cultured pearl industry, from Toba, Japan (1858–1954)

“I want to adorn the necks of all the women of the world with pearls.”

— His lifelong motto / English translation by WA-IKU

His hometown: Toba, Mie Prefecture

He began his experiments in Ago Bay in 1888, with no scientific training.

A red tide wiped out almost all of his oysters in 1892; he kept going.

He produced the first perfectly round cultured pearl in 1905 — seventeen years after he started.

働き盛りの会社員 × バスケコーチ × 地域活動家

~すべては、愛から~

和を敬い × 人を育て × 道を歩む。

和育道~wa-iku~

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御木本幸吉真珠継続失敗の見方
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