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本日ご紹介するのは、かつてお札の肖像になっていた日本人です。
ただ、その顔よりも、この人が20代で立てた志のほうが有名かもしれません。
しかもその志は、そのまま生涯の仕事になりました。
さて、どんな人だったのでしょうか。
対話とは、うまく話すことではないと思っています。
立場の違う二者のあいだに立つこと。
そしてそれは、たいてい、両側から誤解される仕事でもあります。
その役を、生涯かけて引き受けた日本人がいます。
「われ、太平洋の橋とならん」
新渡戸稲造。1862年に生まれ、1933年に亡くなりました。教育者であり、農学者であり、国際連盟の事務次長を務めた人です。
盛岡藩士の家に生まれました。武士の時代が終わり、9歳で兄とともに上京。13歳で東京英語学校に入り、のちの内村鑑三らと出会います。
そして札幌農学校へ。「少年よ、大志を抱け」のクラーク博士が去った直後の、二期生でした。
東京大学で英文学を志したとき、面接でその動機を問われた彼は、こう答えたと伝えられます。
第一に許されるならば、太平洋の橋になりたい。日本の長所を西洋に紹介し、西洋の長所をどしどし日本に輸入する、その橋渡しの役をしたい
20代前半の青年が立てた志が、そのまま生涯の職務記述書になりました。
なぜ『武士道』は英語で書かれたのか
アメリカ留学、ドイツ留学を経たある日、彼はベルギーの法学者からこう問われます。
「日本の学校には宗教教育がないというが、では道徳はどうやって教えるのか」
新渡戸は、即答できませんでした。
日本人は、たしかに教会や日曜学校で道徳を習いません。ではなぜ、正直や礼節や勇気が身についているのか。
考え抜いた末に彼が辿り着いた答えが、武士道でした。
1899年、療養先のアメリカで、彼は英語でこの本を書き上げます。『BUSHIDO: The Soul of Japan』。
はじめから、日本人向けではありませんでした。外国人に日本を説明するために、外国語で書かれたのです。
ここが、対話の要点だと思います。
新渡戸は「日本を理解しろ」とは言いませんでした。相手の言語で、相手の枠組みで、こちら側を説明した。
橋とは、そういうものです。相手に渡ってこいと叫ぶのではなく、自分から半分を架けにいく。
彼は、こう書いています。
日本人の表皮を剥げば、サムライが現れる
この本は各国語に訳され、世界的なベストセラーとなりました。
宮本武蔵の『五輪書』が「内へ向けた言語化」だとすれば、新渡戸の『武士道』は「外へ向けた言語化」でした。
どちらも立つ形を探した
1920年、国際連盟が発足すると、新渡戸は事務次長に就任します。日本人として、世界の調整役の中枢に立ったのです。
有名な功績が、オーランド諸島問題の調停でした。
フィンランドとスウェーデンが領有を争ったこの島々。新渡戸が導いた解決策は、こういうものでした。
領有権はフィンランド。しかし島の非武装化と、住民のスウェーデン語・文化の保障を約束させる。
どちらか一方が勝つ形にしなかったのです。
昨日ご紹介した石田梅岩の「先も立ち、我も立つ」が、そのまま国際政治に現れたような裁定だと思います。
この解決は「オーランド解決」と呼ばれ、100年後の現在も維持されています。
対話が生んだ平和が、一世紀もったのです。
橋の宿命
しかし晩年、新渡戸は最も苦しい立場に置かれます。
日米関係は悪化の一途をたどり、日本は国際連盟を脱退。彼が生涯を賭けた橋は、両岸から崩されていきました。
日本国内では「アメリカ寄りだ」と非難され、アメリカでは「日本の弁護人だ」と見られる。
あいだに立つ者は、両側から撃たれます。
それでも彼は、70歳を超えてなお太平洋を渡り、講演し、対話を続けました。
そして1933年、カナダのビクトリアで客死します。最期まで、橋の上にいました。
おわりに
対話力とは、話術ではないと思うのです。
誤解される場所に立ち続ける、胆力のことです。
地域の会合でも、仕事の調整でも、コートの上でも、この構造はまったく同じだと思います。
両者の言い分がわかってしまう人ほど、板挟みになる。しかしその人がいなければ、話は前に進みません。
今日から持ち帰れることを、三つだけ。
1つめ。相手の言語で説明すること。自分の理屈をそのまま置かず、相手が普段使っている言葉に翻訳して伝える。新渡戸は英語で武士道を書きました。
2つめ。どちらも立つ第三の案を探すこと。AかBかで詰まったら、オーランドを思い出す。「実質を取る側」と「名分を取る側」に分ける発想は、身近な合意形成でもよく効きます。
3つめ。誤解される役を、引き受けると先に決めておくこと。
あいだに立てば、必ずどちらからも文句が出ます。あらかじめそう決めておけば、批判が来たときに折れずに済みます。
——あなたが、いま「あいだ」に立っている場所は、どこでしょうか。
(新渡戸の「あいだに立つ勇気」を、今週の他の4人との共通点から振り返るまとめ記事です。5人の賢者――今すぐの得を、手放した人たち)
この一冊を、もっと深く
『武士道』(岩波文庫・新渡戸稲造/矢内原忠雄 訳) 外国人に日本を説明するために英語で書かれた本を、日本語で読み返す一冊です。「日本人の表皮を剥げばサムライが現れる」という一節も、この中にあります。なぜ書かれたのかを知ってから読むと、まったく違って見えてきます。
人物プロフィール:新渡戸稲造(にとべ・いなぞう)
1862年〜1933年。教育者、農学者、思想家。盛岡藩士の家に生まれる。旧五千円札の肖像としても知られる。
9歳で上京し、13歳で東京英語学校へ。札幌農学校の二期生として学び、内村鑑三らと交友した。東京大学の面接で「太平洋の橋になりたい」と志を述べたと伝えられる。
アメリカ・ドイツへの留学を経て、1899年に療養先のアメリカで『BUSHIDO: The Soul of Japan』を英語で執筆。各国語に訳され世界的なベストセラーとなった。
1920年、国際連盟の発足にあたり事務次長に就任。オーランド諸島の領有問題では、領有権と住民の文化保障を分ける調停案を導き、その解決は現在も維持されている。1933年、カナダのビクトリアで客死した。
