※本記事にはプロモーション(アフィリエイト広告)を含みます。

過去の失敗が、頭から離れない。
若い頃の過ち。取り返しのつかない選択。人に迷惑をかけたこと。思い出すたびに、胸の奥がざらつく。
「あんなことをした自分に、今さら大きなことなど言えない」
そう思って、一歩を引いてしまうことはありませんか。
けれど――遊びと賭博で、いまの価値にして数億円ともいわれる借金を作り、大学を中退した青年がいます。
その男が後に、日本で最初の西洋美術中心の私立美術館を作り、「東洋一」を目指した病院を建て、日本初の研究所をいくつも設立しました。
そして、その多くが100年経った今も、人々を支え続けています。
大原孫三郎(おおはら まごさぶろう)。倉敷紡績を率いた実業家です。
放蕩息子だった青年
若き日の大原孫三郎は、決して褒められた人物ではありませんでした。
裕福な地主・実業家の家に生まれた彼は、東京専門学校――現在の早稲田大学――に進学します。けれど、そこで遊興にふけりました。
使った金は、当時の金額で1万5000円。いまの価値にすれば、数億円にもなるといわれます。
莫大な借金を作り、大学は中退。実家に連れ戻されました。
普通なら、ここで人生が終わってもおかしくありません。
けれど彼は、この挫折から立ち直ります。
きっかけは、二つの出会いでした。
一つは、キリスト教。彼は洗礼を受け、信仰を持つようになります。
そしてもう一つが――石井十次(いしい じゅうじ)という人物との出会いでした。
石井は「日本の孤児院の父」と呼ばれる人物です。私財を投げ打って、1200人もの孤児を育てました。
その生き方に触れた大原は、石井の活動を、生涯にわたって資金面で支え続けます。
放蕩息子が、社会事業家へと変わる転換点でした。
社長になった、その理由
1906年、大原は26歳で倉敷紡績の社長に就任します。
けれど、その就任は、めでたいものではありませんでした。
会社の寄宿舎で感染症が発生し、社員が亡くなったのです。
その責任を取って、社長だった父・孝四郎が辞任しました。跡を継いだのが、息子の孫三郎でした。
つまり彼は、人が亡くなった責任を引き継ぐ形で、経営者になったのです。
このことを知ると、そのあとの彼の行動の意味が、まったく変わって見えてきます。
「人を大切にすれば、良い製品ができる」
明治から大正にかけての紡績工場は、劣悪な労働環境で知られていました。長時間労働、低賃金、不衛生な寄宿舎。のちに『女工哀史』が描くことになる世界です。
けれど大原は、真逆の方向へ舵を切りました。
寄宿舎を建て直し、住む環境を整える。工場の中に病院を作る。学校を設立して、働く女性たちが学べるようにする。当時としては画期的な福利厚生を、次々と導入していきました。
労働者の世話を仲介業者に任せる「飯場制度」も廃止し、食事も日用品も会社が責任を持って用意する仕組みに変えています。
周囲からは「そんなことをすればコストが増える」と批判されました。
けれど大原の考えは、明確でした。
人を大切にすれば、良い製品ができる。
そして実際、倉敷紡績は業績を伸ばします。
働く人が大切にされれば、定着率が上がり、技術が蓄積される。結果として、品質も生産性も上がっていく。
さらに彼は、この経験から労働科学研究所という機関まで設立しました。労働環境が生産性にどう影響するかを、科学的に研究する。日本で初めての、そして世界的にも先駆的な試みでした。
美しい理想を語ったのではありません。人が亡くなった現場を引き受けた人の、切実な答えだったのだと思います。
「わしの眼は十年先が見える」
大原孫三郎には、有名な言葉があります。
「わしの眼は十年先が見える」
これは、未来を言い当ててみせるという自慢ではありませんでした。
彼の改革には、いつも反対がついてまわりました。古くからの重役たち。目先の配当を求める株主たち。「そんなものに、なぜ金を使うのか」と。
その反対を押し切るときに、彼が使った言葉なのです。
十年後に必要になるものを、いま作る。だから今は、分かってもらえなくていい――。
そしてもう一つ、彼が繰り返し語ったのがこの考え方です。
事業をやる者は、儲けることばかり考えてはいけない。社会のためになることを考えなければならない。
けれど彼は、単なる理想主義者ではありませんでした。事業で確実に利益を上げ、その利益を社会事業に投じたのです。
彼が設立したものを並べると、その先見性に驚かされます。
農業、社会問題、労働、医療、芸術。
いずれも、当時の日本に必要でありながら、誰も手をつけていない分野でした。
儲かるからやったのではない。必要だから、やった。
「道徳と経済は両立する」と説いた渋沢栄一と、同じ場所に立っている人です。(渋沢栄一「論語と算盤」の記事はこちら)
「専門家に、全部任せる」
大原美術館の誕生には、一人の画家が深く関わっています。
児島虎次郎(こじま とらじろう)。
大原は、才能ある若き画家だった児島に奨学金を出し、ヨーロッパ留学を支援しました。
そして児島に、こう託します。
日本の若い画家たちが、本物の西洋絵画を見られるようにしたい。良い作品があれば、買ってきてほしい。
児島は、その信頼に応えました。
ヨーロッパで、まだ評価の定まっていない画家の作品も含め、真に価値あるものを見極めて買い集めたのです。エル・グレコの『受胎告知』は、その代表格です。
注目すべきは、大原が児島に全面的な裁量を与えたことです。
自分は絵の専門家ではない。だから、信頼できる専門家に任せる。
本田宗一郎が経営を藤沢武夫に任せたように、自分の限界を知り、優れた人に委ねる。その器の大きさが、100年後も国内最高峰と言われるコレクションを生みました。(本田宗一郎の記事はこちら)
今を生きる私たちへ
大原孫三郎の生き方は、経営者だけのものではありません。
過去の失敗は、終わりではない。 数億円を遊びで溶かした青年が、100年残るものを遺しました。過去は変えられませんが、これから何を積むかは、今日から選べます。
人を大切にすることは、コストではない。 相手を大事にする手間は、遠回りに見えて、いちばん確かな投資です。家庭でも職場でも、この順番を間違えないこと。
「儲かるか」だけで、決めない。 「必要だからやる」という判断軸をひとつ持つ。その積み重ねが、長く残るものを作ります。
自分の限界を知り、任せる。 全部を自分で決めようとしない。信頼できる人に、思い切って裁量を渡す。それができる人のところに、大きな成果が集まります。
そして、出会いを大切にする。 大原を変えたのは、石井十次という一人の人物でした。人は、出会いによって変わります。
おわりに
大原孫三郎は、生前こう言われることがありました。
「あれだけ社会事業に金を使うのは、道楽ではないか」
けれど彼は、意に介しませんでした。
そして――彼が作ったものは、100年経った今も生き続けています。
大原美術館には、今も多くの人が訪れます。倉敷中央病院は、地域医療の中核として機能しています。彼が設立した研究所は、今も大学の研究機関として続いています。
会社は、いずれ形を変えます。けれど、彼が社会に遺したものは、100年を超えて人を支え続けている。
自分よし、相手よし、世間よし。近江商人が説いた「三方よし」を、大原孫三郎は生涯かけて実践した人でした。(近江商人「三方よし」の記事はこちら)
放蕩息子だった青年が、社会を変える実業家になった。
その転換点にあったのは、たった一人の人物との出会いでした。
人は、出会いによって変わる。そして変わった人が、また誰かを変えていく。
あなたが今日関わる仕事も、誰かとの会話も、思いがけず誰かの人生に触れているかもしれません。
その積み重ねが、100年後の誰かを支えている可能性だって、あるのです。
(大原孫三郎の「十年先」を、他の4人との共通点から振り返るまとめ記事です。5人の賢者――すぐに結果が出ないことに、耐えられますか)
この実業家を、もっと知りたい方へ
大原孫三郎については、性格の違う二冊があります。読みたい方向で選んでみてください。
物語として一気に読みたい方へ
作家・城山三郎が、大原の生涯を一編の物語として描いた一冊です。放蕩の日々からの転換、常識外れの経営、次々と生まれた社会事業。事実そのものが面白く、経営書というより一級の人物伝として読めます。タイトルは、彼の口癖そのものです。
『わしの眼は十年先が見える ―大原孫三郎の生涯―』(新潮文庫・城山三郎)
事実を深く追いたい方へ
大原孫三郎研究を専門とする著者による評伝です。副題の「善意と戦略」が示すとおり、彼の社会事業を美談で終わらせず、経営者としての計算と両立していた点まで踏み込んでいます。
『大原孫三郎 ―善意と戦略の経営者』(中公新書・兼田麗子)
倉敷を訪れる前に読むと、大原美術館の一枚一枚が、まったく違って見えてくるはずです。
人物プロフィール:大原孫三郎
経歴・功績
ひとことで:遊興で身を持ち崩した青年が、一人の社会事業家との出会いで生まれ変わり、「儲けと使命の両立」を掲げて、100年後も生き続ける美術館・病院・研究所を地方都市に遺した実業家。
