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一度きりの取引なら、自分が得をするほうがいい。
そう考える人は、少なくありません。値切れるだけ値切る。相手が損をしても気にしない。自分の成果だけを追いかける。
短期的には、それで勝てることもあります。
けれど不思議なもので――そういう人は、たいてい長続きしません。いつのまにか声がかからなくなり、人が離れ、気づけば一人になっている。
逆に、いつも周りを立てている人のところに、なぜか仕事も人も集まっていく。
この違いはどこから来るのか。
その答えを、江戸時代の日本人は、たった五文字で言い表していました。
「三方よし(さんぽうよし)」です。
売り手よし、買い手よし、世間よし
「三方よし」とは、近江商人――現在の滋賀県出身の商人たち――の商いの精神を表した言葉です。
売り手よし:商売をする側が、正当な利益を得られること 買い手よし:お客が満足し、幸せになること 世間よし:その商売が、地域社会全体の利益になること
この三つが揃って、初めて本当に良い商売だ、という考え方です。
ここで注目したいのが、三つ目の「世間よし」です。
売り手と買い手が満足すれば、それで十分のように思えます。取引としては、成立しているのですから。
けれど近江商人は、それだけでは足りないと考えました。
その商売が、地域社会全体にとってプラスになっているか。周りの人々や、次の世代にとっても良いことか――。
この三つ目の視点があるかどうかが、一時的な成功と、長く続く繁栄を分ける。
商いは、私利だけでなく公益と共にあってこそ続く――渋沢栄一の「論語と算盤」と、まっすぐ響き合う考え方です。
「よそ者」だったからこそ、信頼を守り抜いた
近江商人が「三方よし」を徹底したのには、切実な理由がありました。
彼らは、地元の近江を離れ、見知らぬ土地へ出て行って商売をしました。つまり、行く先々で「よそ者」だったのです。
よそ者が信頼を得るのは、簡単ではありません。
一度でも「あの商人は自分のことしか考えていない」と思われたら、二度とその土地では商売ができない。
だから彼らは、徹底して「その土地の人のため」に動きました。
商売で訪れた土地に、橋を架ける。井戸を掘る。学校を建てる。災害があれば、真っ先に支援に回る。
自分たちが儲けさせてもらった土地に、利益をきちんと還元したのです。
得たものを自分のものだけにせず、譲って次へ回す――二宮尊徳の「推譲」の教えと、同じ心がここにあります。
その結果、彼らは全国で「近江の商人なら信頼できる」という評判を得ました。そして、何代にもわたって商売を続けることができたのです。
実際、伊藤忠商事、丸紅、高島屋、ヤンマー、日本生命など、日本を代表する多くの企業が、近江商人の流れを汲むと言われています。三方よしは、きれいごとではなく、実際に何百年も続く繁栄を生んだ実践的な知恵でした。
名を刻まなかった人たち ―― 陰徳善事
近江商人には、もう一つ、心に残る言葉があります。
「陰徳善事(いんとくぜんじ)」
人に知られないところで、良い行いをする、という意味です。
彼らは、地域に貢献するとき、それを大々的に宣伝しませんでした。
橋を架けても、井戸を掘っても、自分の名を刻まなかった。ただ黙って、その土地のために尽くしたのです。
なぜでしょう。
見返りや評価を求めて行う善行は、本当の善ではない――そう考えたからでした。
人の評価ではなく、天に恥じないかどうかで生きる。西郷隆盛の「敬天愛人」に流れる心とも、深く重なります。
現代は、自分の善い行いを、簡単に発信できる時代です。それ自体は、悪いことではありません。共感が広がり、良い連鎖が生まれることもあります。
けれど、その根っこに「人に見せるため」ではなく「本当に誰かのため」という思いがあるかどうか。
それが、近江商人が静かに投げかけてくる問いです。
今を生きる私たちへ
「三方よし」は、商売だけの話ではありません。仕事にも、地域の活動にも、人間関係にも、そのまま当てはまります。
たとえば、何かの集まりやイベントを考えてみてください。
運営する側が「やってよかった」と思える(主催者よし)。参加した人が「楽しかった」と喜ぶ(参加者よし)。そして、その活動が地域のつながりを強め、次の世代へ受け継がれていく(地域よし)。
この三つが揃ったとき、その活動は単なるイベントを超えて、その土地の文化になります。長く続いている祭りや行事は、たいてい、この三つを満たしています。
日々の場面では、こんなふうに使えます。
「三つ目」を、必ず問う。 自分と相手だけでなく、「これは周りや社会にとってどうか」を一度考える。この三つ目の視点が、物事を長続きさせます。
信頼は、還元から生まれる。 得たものを、自分だけのものにしない。少しでも周りへ返す。その循環が、深い信頼を育てます。
「10年後、どう見えるか」で判断する。 目先の損得ではなく、長い時間軸で見る。長く続くものは、必ず三方よしを満たしています。
見られていなくても、やる。 陰徳善事。誰かの評価のためではなく、本当に良いと思うから、やる。その静かな積み重ねが、いちばん強い信頼になります。
おわりに
自分だけが得をする商売は、その場では勝てるかもしれません。
けれど、それは長くは続かない。信頼を失った人のもとから、人も仕事も、静かに去っていくからです。
近江商人が何百年も繁栄を続けられたのは、彼らが「自分よし」で終わらなかったからでした。買い手を思い、世間を思い、名も残さずに地域へ尽くした。
その積み重ねが、時間をかけて、揺るがない信頼へと育っていったのです。
売り手よし、買い手よし、世間よし。
今日あなたが向き合っている仕事や活動に、この三つ目の視点を、そっと加えてみる。
その小さな一手が、あなたのまわりに、長く続く豊かさを作っていくのだと思います。
(近江商人の「還す」を、他の4組の賢者との"共通点"から振り返るまとめ記事「分かっているのに、動けない」を終わらせるも公開しています)
(「三方よし」と深く響き合う「自他共栄」を掲げ、武術を人間教育の道に変えた人がいます。158センチの少年が、世界に広めたもの――嘉納治五郎「術」から「道」への革命も、あわせてどうぞ。)
この商人道を、もっと知りたい方へ
「三方よし」をはじめとする近江商人の哲学は、今も多くの本にまとめられています。
現代の経営やまちづくりの文脈で読み解いた入門書を一冊読むと、江戸時代の商いの知恵が、驚くほど今の仕事に使えることが分かります。日本にこんな商人道があったのか、と誇らしくなる一冊です。
彼らがなぜ名を刻まずに地域へ尽くしたのかを知った今なら、その一節一節が、より深く胸に届くはずです。
『近江商人の哲学 「たねや」に学ぶ商いの基本』(講談社現代新書・山本昌仁) 滋賀の老舗菓子舗「たねや」の当主(近江商人の家の10代目)が、三方よしを現代の商いでどう実践しているかを語る一冊。江戸の知恵が今も生きていることを、実例で教えてくれます。
解説:近江商人とは
呼称:近江商人(おうみしょうにん)/「江州商人」とも 時代:主に江戸時代〜明治期に活躍 出身地:近江国(現在の滋賀県) 特徴:地元を本拠に置きながら、全国各地へ出向いて商いをした行商・出店型の商人集団
商いの哲学
その後の広がり
ひとことで:見知らぬ土地で「よそ者」として商いをしたからこそ、信頼を何より重んじ、「自分よし」で終わらない商売の形を作り上げた商人たち。その精神は、400年を経た今も日本の企業に受け継がれている。
※「三方よし」という表現自体は近代以降に定着したものとされ、江戸時代の商人が日常的にこの四字を用いていたわけではないという指摘もあります。ただし、その精神が家訓などに息づいていたことは、多くの資料が伝えています。
