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「地価が上がっている」というニュースを見て、あなたはどう感じるでしょうか。
自分の土地を持っている人なら「資産が増えた」と喜ぶかもしれません。これから家を買う人なら「もう手が届かない」と焦るかもしれない。相続を控えた人なら「税金が増える」と不安になるかもしれません。
同じ一つの数字が、立場によって、まるで違う意味を持つ。
2026年7月に国税庁が発表した路線価は、全国平均で前年比2.9%の上昇。5年連続のプラスで、現在の算出方法になってから最大の伸びでした。東京都は9.4%と全国平均の3倍を超え、スキーリゾートとして海外にも知られる長野県白馬村は、なんと32.7%も上昇しています。
数字だけ見れば、日本の土地は「豊かになっている」ように見えます。
けれど――その豊かさは、そこに暮らす人を、本当に幸せにしているのでしょうか。
この問いを、100年前に投げかけ続けた日本人がいました。渋沢栄一です。
500社を作りながら、財閥を作らなかった男
渋沢栄一は、「日本資本主義の父」と呼ばれる人物です。
銀行、鉄道、保険、紡績、電力、ホテル、ビール――。今も名前を聞く日本の名だたる企業の多くが、彼の手で産声を上げました。生涯で関わった企業は、およそ500社にのぼると言われています。
これだけの事業に関われば、莫大な富を築き、巨大な財閥を作ることもできたはずです。同じ時代、三井や三菱は、まさにそうやって富を集中させていきました。
ところが、渋沢はそれをしませんでした。
意図的に、自らの財閥を作らなかったのです。
なぜか。彼にとって、事業を興す目的は「自分が儲けること」ではなく、「社会全体を豊かにすること」だったからです。
「合本主義」――みんなのために、資本を集める
渋沢が唱えた経済思想を、「合本(がっぽん)主義」といいます。
考え方はシンプルです。公益、つまり"みんなの利益"を実現するために、最もふさわしい人材と資本を集め、事業を進める。
現代の株式会社の仕組みに近く見えますが、決定的な違いがあります。渋沢の合本主義の目的は、株主個人の利益ではなく、社会全体の利益にありました。
資本を集めるのは、自分が儲けるためではない。社会を豊かにするためだ――。この思想が、日本の近代化を静かに支えたのです。
そして彼は、生涯にわたって説き続けました。
「論語と算盤(そろばん)」。
道徳(論語)と経済(算盤)は、対立するものではない。むしろ、両輪でなければならない。道徳なき利益は長続きせず、利益なき道徳は社会を養えない――と。
(「事業とは、結局は人が動かすもの」。渋沢が人材を何より重んじたこの姿勢は、「信じてもらえた人」は、なぜ伸びるのか――松下幸之助に学ぶ、人の活かし方で書いた「事業は人なり」の精神と、深く響き合います。)
「正しい道理」でない富は、必ず崩れる
渋沢が最も警戒したのは、土地や資本の価値が上がること、それ自体ではありません。
その上昇によって、人々が道徳を忘れ、投機に走ることでした。
価値が上がれば、必ず「儲けよう」とする動きが生まれます。転売、投機、そしてバブル。けれど渋沢は、それは長続きしないと言い切りました。正しい道理に基づかない富は、必ず崩れる、と。
歴史は、彼が正しかったことを証明しています。1990年代初頭、日本は熱狂的な地価高騰の末に、バブルの崩壊を経験しました。数字だけを追い、その先にいる人を忘れたとき、経済は足元から崩れたのです。
渋沢なら、地価上昇にこう問うだろう
土地の値段が上がることは、その地域に人が集まり、商売が生まれ、活気が出ているという証でもあります。それ自体は、悪いことではありません。
問題は、その豊かさを、どう使うかです。
渋沢なら、きっとこう問うでしょう。
「その土地の価値上昇は、そこに暮らす人々を幸せにしているか?」
観光客で潤う土地。けれど、地元の人が住みにくくなってはいないか。都心の地価上昇。けれど、若い世代が家を持てなくなってはいないか。
数字が上がることと、人が幸せになることは、必ずしも同じではない。渋沢は、その差を、生涯見つめ続けた人でした。
今を生きる私たちへ
渋沢の思想は、経営者や投資家だけのものではありません。お金と関わって生きる、私たち全員に効きます。
数字だけを見て、一喜一憂しない。 土地も、株価も、給料も。数字の上下は目に入りやすいけれど、大事なのは「その先で、人が豊かに暮らせているか」。数字は、目的ではなく手段です。
「儲かるか」の前に、「これは正しいか」と問う。 渋沢が生涯手放さなかった問いです。目先の利益より、正しい道理を選ぶ。遠回りに見えて、その積み重ねだけが、長期的な信頼を生みます。
得たものを、独り占めしない。 渋沢は「推譲(すいじょう)」――余りを人や次の世代に譲る心を大切にしました。自分の豊かさを、少しでも周りへ回す。その循環が、めぐりめぐって自分にも返ってきます。
(この「推譲」の心は、「小さな努力なんて無駄」と思ったとき――二宮尊徳が遺した『積小為大』の力で書いた、二宮尊徳の生き方そのものです。渋沢は尊徳を深く敬っていたと伝えられています。)
目の前の仕事を、誠実にやり切る。 これがいちばん現実的な実践かもしれません。誰かが誠実に良いものを作り、良い仕事をする。その積み重ねこそが、地域の価値を、数字ではなく本当の意味で高めていきます。
おわりに
渋沢栄一は、91歳で亡くなるまで、社会事業に力を注ぎ続けました。実業の一線を退いた後も、教育、福祉、国際交流に生涯を捧げたのです。
彼が新一万円札の顔になったのは、偶然ではないと思います。経済がどれだけ発展しても、道徳が失われれば、社会は荒れていく。その警鐘として、彼の言葉が今、あらためて求められているのでしょう。
地価が上がった。それは、たしかに一つの数字です。
けれど、その数字の裏には、必ず、そこで暮らす人の生活があります。
数字を見るとき、その先にいる「人」を忘れない。
それが、100年の時を超えて、渋沢栄一が私たちに教えてくれる、お金との向き合い方なのだと思います。
(「道徳と経済は両立する」という考えは、後の経営者・稲盛和夫にも受け継がれています。迷ったとき、何を基準に決めていますか――稲盛和夫「判断の羅針盤」もどうぞ。)
(渋沢の生き方を、他の4賢者との"共通点"から振り返るまとめ記事歴史に名を残す人と、忘れられる人の違いは、たった一つだったも書きました。)
「公益と共にある商い」の心は、江戸の商人たちの中にも息づいていました。近江商人「三方よし」では、名も刻まず地域に尽くした商人たちの、400年続く信頼の知恵を紹介しています。
(得た富を社会へ還す――渋沢の「公益」と同じ道を歩む現代の投資家がいます。数字に振り回される人と、待てる人――バフェットが語った「忍耐」の話も、あわせてどうぞ。)
この思想を、もっと知りたい方へ
渋沢栄一の代表作『論語と算盤』は、道徳と経済は両立できるという信念を、平易な言葉で語った一冊です。
100年以上前の講演をまとめた本でありながら、驚くほど今に刺さります。現代語訳の読みやすい版も多く出ているので、そこから入るのがおすすめです。彼が500社を興しながら、なぜ財閥を作らなかったのか――その理由を知った今なら、一つひとつの言葉が、より深く胸に届くはずです。
渋沢栄一『現代語訳 論語と算盤』(守屋淳 訳・ちくま新書) 原文の格調を保ちつつ、驚くほど読みやすい定番の現代語訳。31万部を超えるロングセラーです。
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人物プロフィール:渋沢栄一
氏名:渋沢栄一(しぶさわ えいいち) 生没年:1840年(天保11年)― 1931年(昭和6年)/武蔵国血洗島村(現・埼玉県深谷市)生まれ 分野:実業家・官僚・社会事業家 異名:「日本資本主義の父」
経歴・功績
ひとことで:500の会社を興しながら、自らの財閥は作らなかった人。「道徳なき経済は滅び、経済なき道徳は寝言である」という精神で、日本の近代化を支えた実業家。
