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やる前から、「無理だ」と結論を出してしまう。
前例がない。技術がない。資金がない。時間がない。人手が足りない。――理屈を並べれば、できない理由はいくらでも見つかります。
そして、たいていその理屈は、正しいのです。だから私たちは、動かないことを自分に許してしまう。
けれど――同じ状況で、動いた人がいます。
「日本人の頭と腕で、自動車をつくる」
そう宣言したのは、日本にまだ自動車を作る技術も、部品を供給する産業もほとんどなかった時代でした。
その人の名は、豊田喜一郎(とよだ きいちろう)。トヨタ自動車の創業者です。
安定した事業を捨てて、未知の分野へ
1930年代の日本。自動車といえば、アメリカのフォードとGMが圧倒的なシェアを握っていました。国産車を作ろうとする試みは、ことごとく失敗に終わっていた時代です。
喜一郎の立場は、恵まれていました。
父・豊田佐吉が築いた自動織機事業の後継者。すでに世界水準に達した、安定した事業がありました。そのまま継げば、何の問題もなかったのです。
それなのに彼は、まったく畑違いの自動車産業へ飛び込みます。
その背中を押したのが、父・佐吉の言葉でした。佐吉は「日本の発明王」と呼ばれた人物です。貧しい大工の家に生まれ、独学で自動織機を発明し、日本の繊維産業を世界水準に押し上げた人でした。
その佐吉が、息子にこう言ったと伝えられています。
「わしは織機で国に尽くした。おまえは自動車をやれ。これからは自動車の時代だ」
佐吉の自動織機の特許はイギリスの企業に売却され、その資金が喜一郎の自動車研究の元手になったと伝えられています。
けれど――資金があれば、成功するわけではありません。
当時の日本には、自動車を作る技術も、部品産業の基盤も、ほとんど存在しませんでした。喜一郎は文字通り、ゼロから始めなければならなかったのです。
ネジ一本まで、分解した
喜一郎が最初にしたことは、驚くほど地道な作業でした。
アメリカ製のシボレーを購入し、徹底的に分解したのです。
ネジ一本、部品一つに至るまで、すべて分解し、スケッチし、材質を分析し、そして「自分たちで作れるか」を一つずつ検証していきました。
これは、千利休に由来する「守破離」の“守”そのものです。まず徹底的に真似て、基本を学ぶ。そこから独自の道を切り拓く。
けれど、現実は厳しかった。
エンジンを作ろうとしても、鋳造技術が足りない。シリンダーブロックの鋳造に、何度も失敗しました。材料も、日本には適した鋼材がありませんでした。
「できない理由」は、無数にありました。
それでも彼は、諦めませんでした。彼の言葉として、今も語り継がれる一言があります。
「できないという前に、まずやってみろ」
理屈で「できない」と決めつける前に、まずやってみる。この姿勢が、一つずつ、不可能を可能に変えていきました。
(この「まずやってみる」の魂は、同じ時代を駆けた本田宗一郎「99%の失敗」にも流れています。あわせてどうぞ。)
制約が、革新を生んだ
喜一郎が生み出したもう一つの偉大な発明が、「ジャスト・イン・タイム」です。
必要なものを、必要なときに、必要なだけ作る。今では世界中の製造業が採り入れている生産方式です。
では、なぜこの発想が生まれたのか。
答えは意外なものです。トヨタに、資金がなかったからでした。
大量の部品を在庫として抱える余裕がない。だから、必要な分だけを、必要なタイミングで作るしかなかった。
つまり――制約が、革新を生んだのです。
これは、とても大切な教訓を含んでいます。
豊富な資源があれば、人は工夫しなくなります。けれど、制約があるからこそ、知恵が生まれる。
「ないから、できない」ではなく、「ないからこそ、どうするかを考える」。
この転換が、後に世界の製造業を変える思想を生み出したのです。
(“蓄え”の側から余裕を説いた松下幸之助「ダム経営」と読み比べると、「無いなら知恵を出す」と「有るうちに蓄える」の見事な対になっています。)
責任を取って、辞任した
喜一郎の人生は、成功物語だけではありません。
戦後の混乱期、トヨタは深刻な経営危機に陥ります。インフレ、資材不足、販売不振。1949年、会社は倒産寸前まで追い込まれました。
銀行団が出した融資条件は、大規模な人員整理でした。
喜一郎は、社員を家族のように考えていました。解雇はしたくない。けれど、会社が潰れれば、全員が職を失う。
苦渋の決断で、多くの希望退職を実施することになります。
そして喜一郎は、その責任を取って、社長を辞任しました。
従業員を路頭に迷わせた責任は、経営者である自分にある――そう言って、自ら身を引いたのです。
その後、経営は回復し、周囲の要請で社長復帰が決まっていました。その矢先、喜一郎は脳出血で急逝します。享年57。
自分が作った会社の成功を、見ることなく世を去ったのです。
けれど、彼が遺した「まずやってみる」の精神と、ジャスト・イン・タイムという思想は、トヨタの中で生き続けました。
そして、世界一の自動車メーカーへと育っていったのです。
今を生きる私たちへ
喜一郎の生き方は、経営者だけのものではありません。何かを始めたい、けれど動けない私たちに、そのまま効きます。
理屈で「できない」と決める前に、まずやってみる。 「できないという前に、まずやってみろ」。動く前の判断は、たいてい思い込みです。小さく試してみれば、思っていた壁と実際の壁は違っていた、と気づくことがよくあります。
「ないこと」を、言い訳にしない。 時間がない、お金がない、経験がない。それは事実です。けれど、それが工夫の出発点になります。制約があるからこそ生まれる知恵が、あなただけのやり方になります。
まず、徹底的に真似る。 分解して、スケッチして、仕組みを理解する。オリジナルは、模倣を極めた先にしか生まれません。近道はありません。
結果の責任から、逃げない。 うまくいかなかったとき、誰かのせいにしない。その姿勢が、周りの信頼を静かに育てます。
おわりに
豊田喜一郎が偉大だったのは、成功したからではありません。
むしろ生前の彼は、苦労の連続でした。技術の壁、資金難、経営危機、そして辞任。自分が築いた会社の栄光を、彼は見ていないのです。
それでも彼は、道なき道を切り拓きました。
誰も「日本で自動車を作れる」と思っていなかった時代に、そう宣言し、実行した。その挑戦があったからこそ、今があります。
彼が遺した言葉が、もう一つあります。
「誰も余りやらない、又やり難い事業をものにしてみる所に人生の面白みがある。出来なくて倒れたら、自分の力が足りないのだ」
誰もやらないこと、やりにくいことにこそ、人生の面白みがある。できずに倒れたら、それは自分の力が足りなかっただけ――なんという潔い覚悟でしょう。
何かを始めるとき、私たちはつい「失敗したらどうしよう」と足がすくみます。けれど、本当に大きなものは、たいてい一代では終わりません。喜一郎が蒔いた種も、彼の死後、受け継いだ人たちの手で花開きました。
だから、まず動く。完成を自分の目で見られなくても、誰かが受け継いでくれるなら、その一歩は無駄にはなりません。
「できないという前に、まずやってみろ」
今日、この言葉を胸に、目の前の一つに、手をつけてみませんか。
(喜一郎の「ネジ一本の地道さ」を、他の4人との“共通点”から振り返るまとめ記事歴史に名を刻んだ5人は、全員「持たざる者」だったも、あわせてどうぞ。)
この人物を、もっと知りたい方へ
豊田喜一郎の挑戦から生まれた「トヨタ生産方式」は、今も世界中で研究されています。
本書は、喜一郎が提唱したジャスト・イン・タイムを、現場で体系化した大野耐一自身の手による原点の一冊。「制約が革新を生む」という思想が、いかに現場の苦闘から生まれたかが、生々しく伝わってきます。ものづくりに関わる人だけでなく、限られた資源で成果を出したいすべての人に響きます。
『トヨタ生産方式――脱規模の経営をめざして』(ダイヤモンド社・大野耐一) 喜一郎のジャスト・イン・タイムを現場で育て上げた本人による古典的名著。世界の製造業を変えた思想の原点です。
喜一郎が成功を見ずに世を去ったことを知った今なら、その思想が、より重く胸に届くはずです。
人物プロフィール:豊田喜一郎
経歴・功績
ひとことで:安定した家業を継ぐ道を選ばず、技術も産業基盤もない時代に「日本人の頭と腕で自動車をつくる」と宣言し、道なき道を切り拓いた技術者。制約の中から世界を変える生産思想を生み出した。
