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休むことに、少し罪悪感を覚える。
そんなことは、ありませんか。
やるべきことが残っているのに、遊びに行っていいのだろうか。この時間があれば、もっと生産的なことができるのに。楽しみは、すべて終わってから――。
私たちは、いつのまにか「効率」を物差しにして生きています。無駄を省き、生産性を上げることが、良いことだと信じて。
その物差しで測れば、祭りほど「無駄」なものはありません。
何か月もかけて準備し、たった一日で終わる。何かが生産されるわけでもない。莫大な手間と費用がかかる。
それなのに――日本人は千年以上にわたって、祭りを続けてきました。
そこには、必ず理由があるはずです。
今日は、日本民俗学の父・柳田國男(やなぎた くにお)が見出した「ハレとケ」という考え方から、その理由を探ってみます。
名もなき人々の暮らしを、研究した人
柳田國男は、1875年生まれ。日本民俗学を創始した学者です。
彼はもともと、農商務省の官僚でした。全国を巡る仕事の中で、各地の農村の暮らしや伝承に触れ、そこに学問的な価値を見出していきます。
当時の学問は、西洋の理論を輸入することが中心でした。けれど柳田は、日本の名もなき庶民の暮らしにこそ、真理があると考えたのです。
彼は「常民(じょうみん)」という言葉を使いました。歴史書に名を残さない、普通の人々。その生活習慣や信仰、口伝えの物語を、丹念に記録し、分析していきました。
代表作『遠野物語』は、岩手県遠野地方に伝わる伝承をまとめたもので、日本民俗学の原点となっています。
彼が明らかにしたのは、こういうことでした。
庶民の何気ない習慣の中に、日本人の深い知恵が隠されている。
その代表的な発見が、「ハレとケ」でした。
「ケ」――日常は、少しずつ枯れていく
柳田は、日本人の時間感覚を、二つに分けて説明しました。
一つ目が、「ケ」。日常です。
普段の生活。仕事をし、食事をし、眠る。繰り返される、変化のない日々。
「ケ」は、生きるための基盤です。けれど、同じことの繰り返しは、次第にエネルギーを消耗させていきます。
柳田の後を継いだ民俗学者・桜井徳太郎は、この状態を「ケ枯れ(けがれ)」と説明しました。日常を続けるうちに、生命力が、少しずつ枯れていく――と。
心当たりが、ありませんか。
毎日きちんとやっているはずなのに、なぜか気力が湧かない。何が悪いわけでもないのに、なんとなく疲れている。それが「ケ枯れ」です。
「ハレ」――枯れたものを、回復させる
そしてもう一つが、「ハレ」。非日常です。
祭り、正月、節句、婚礼。特別な日のことです。
普段とは違う服を着る(晴れ着)。普段とは違うものを食べる(赤飯、餅)。普段とは違うことをする(踊る、神輿を担ぐ)。
「晴れ舞台」「晴れ着」という言葉は、ここから来ています。
そして重要なのは、この「ハレ」が持つ機能です。
ハレは、枯れたケを回復させる。
日常で消耗した生命力を、非日常の場で回復する。そしてまた、日常へと戻っていく。
この循環こそが、人が生きていくために必要なのだと、民俗学は説きます。
祭りは、日常を支える「装置」だった
ここまで来ると、冒頭の問いへの答えが見えてきます。
祭りは、無駄ではありません。日常を支えるための装置なのです。
年に一度、日常から離れる。普段は交わらない人と交わる。普段はしないことをする。
そのリセットがあるから、また一年、淡々とした日常を続けられる。
もし祭りがなければ、人は「ケ枯れ」したまま、消耗し続けることになります。
効率だけを追い求めて非日常を削っていくと、私たちは日常そのものを続ける力を失ってしまう。一見無駄に見えるものが、実は全体を支えている――これは、荘子の「無用の用」とも通じる考え方です。
祭りが作る、見えないつながり
祭りには、もう一つ大切な機能があります。
普段は交わらない人が、交わる場になる。
日常では、人は自分の属する世界の中で生きています。職場の人、家族、友人。関わる範囲は、意外なほど限られています。
けれど祭りの場では、それが崩れます。年齢も、職業も、立場も関係なく、同じ場所に集まる。子どもとお年寄りが、同じ空を見上げる。
一度でも一緒に何かをした人には、道で会えば挨拶するようになります。顔を知っているだけで、その地域は少し安全になる。この感覚は、ジェイン・ジェイコブズの「通りの目」そのものです。
祭りの本当の価値は、当日の楽しさだけではありません。
その後の一年間、地域に残る「つながり」を作ることにあるのです。
作る側にしか、味わえないもの
祭りには、二つの立場があります。見る側と、作る側です。
見る側にとって、祭りは楽しい非日常です。花火を見上げ、屋台を回り、語らう。
けれど、作る側にとっては、大変な仕事です。
何か月も前から準備し、当日は朝から動き続け、終われば片付けをする。安全管理、資金の調達、関係各所との調整、天候への対応。見えないところで、膨大な労力が注がれています。
けれど――作る側にしか味わえないものがあります。
自分たちが準備した花火が上がった瞬間、会場から「わあっ」と声が上がる。
その歓声を聞いたとき、すべての苦労が報われる。
これは、お金では決して買えない喜びです。
范仲淹の「先憂後楽」――みんなより先に憂い、みんなの後に楽しむ――を思い出します。祭りを支える人たちは、まさにそれを実践しているのです。
その人たちの苦労があるからこそ、その土地の「ハレ」が守られています。
今を生きる私たちへ
「ハレとケ」の知恵は、祭りの話にとどまりません。
「ケ枯れ」に、気づく。 何が悪いわけでもないのに疲れている。それは、あなたが弱いのではなく、日常が続きすぎているだけかもしれません。
小さな「ハレ」を、意識して作る。 年に一度の祭りだけがハレではありません。週に一度の楽しみ、月に一度の特別な時間。それも立派なハレです。予定に入れておく――ここが大事です。
休むことに、罪悪感を持たない。 ハレは、サボりではありません。日常を続けるための、必要な装置です。回復は、生産の一部です。
「ケ」も、丁寧に生きる。 人生の大部分は、地味な日常でできています。ハレばかりを追いかけるのではなく、淡々とした日々を大切にする。その土台があってこそ、ハレは輝きます。
おわりに
柳田國男は、庶民の暮らしを研究し続けました。そこにこそ、人が生きるための知恵があると信じたからです。
「ハレとケ」も、学者が机上で作った難しい理論ではありません。
日本人が何百年もかけて、生きるために編み出した知恵です。
日常を続けるために、非日常が必要だ。 働き続けるために、休みが必要だ。 淡々とした日々を支えるために、心が躍る日が必要だ。
効率を追い求めるあまり、私たちは少しずつ「ハレ」を失いつつあります。
けれど、ハレを失った日常は、静かに枯れていきます。
だから、祭りは必要なのです。そしてそれを支える人たちがいるからこそ、その土地は生き続けます。
今日は、日曜日。
自分にとっての「ハレ」は何だろうかと、少し考えてみてください。
そして、明日からの「ケ」を、しっかりと生きる準備を整えましょう。
この学者を、もっと知りたい方へ
柳田國男が「祭りとは何か」を自ら語った一冊が、『日本の祭』です。
戦時中の講義をもとにした本で、祭りの原型、晴れ着や物忌みの意味、「祭り」が「祭礼」へと変わっていった歴史を、平易な語り口で解き明かしています。なにげない日本の習慣の一つひとつに、深い理由があったことに驚かされます。
『日本の祭』(角川ソフィア文庫・柳田國男) 「ハレ」の本丸である祭りを、民俗学の父自身が語った講義録。日本人がなぜ祭りを続けてきたのかが分かる一冊です。
祭りがなぜ必要なのかを知った今なら、来年の夏祭りが、まったく違って見えてくるはずです。
人物プロフィール:柳田國男
経歴・功績
ひとことで:歴史書に名を残さない普通の人々の暮らしにこそ知恵があると信じ、日本人が何百年もかけて育んできた生活の知恵を、学問として体系化した民俗学の創始者。
