和育道〜wa-iku〜
育の章

上杉うえすぎ鷹山ようざん「伝国の辞でんこくのじ」――自分が去ったあとも、効き続けるものを残す

Yozan Uesugi — Lord of the Yonezawa domain, Japan (1751–1822) Read in English ↓

自分の代ではうまくいったのに、引き継いだ人の代で元に戻ってしまう。240年前、17歳で破綻寸前の藩を引き継いだ殿様は、自分の生活費を7分の1に削り、鍬を持って田に入りました。そして家督を譲るとき、次の代を縛る三か条を残します。やり方ではなく、目的を残した人の話です。

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夜明けの棚田に立ち、鍬を手にして城下町を見わたす若い藩主の後ろ姿(イメージ挿絵:和育道)
夜明けの棚田に立ち、鍬を手にして城下町を見わたす若い藩主の後ろ姿(イメージ挿絵:和育道)

本日ご紹介するのは、自分がいなくなったあとのことを、文書にして残していった殿様です。

残したのは、やり方のマニュアルではありませんでした。

さて、どんな人だったのでしょうか。

自分の代では、うまくいった。

けれど、引き継いだ人の代で元に戻ってしまう。役が変わったとたん、積み上げたものが消えていく。

今週はここまで、四人を見てきました。

出光佐三は、先に守った。高嶋仁さんは、握る場所と離す場所を分けた。中江藤樹は、自分の在り方を正した。土光敏夫は、いちばんきつい所を自分で取った。

四人とも、「こうしろ」と命じる前に、自分の側で何かをしています。

しかし、ここには限界があります。その人がいなくなったら、どうなるのか。

去ったあとも動き続けるチームは、どう作るのか。その問いに、240年前に答えを出した人がいます。

石高は8分の1、家臣はそのまま

上杉鷹山(うえすぎ・ようざん)。1751年に生まれ、1822年に亡くなりました(72歳没)。出羽国米沢藩の第9代藩主です。

生まれは日向高鍋藩の次男。つまり、米沢の人ではありません。10歳で上杉家の養子となり、17歳で藩主となります。

引き継いだ米沢藩の状態は、控えめに言って絶望的でした。

かつては会津120万石を誇った名門です。それが度重なる減封で15万石に。

ところが、家臣の数は120万石時代のまま抱えていました。

石高は8分の1、人は同じ。借金は膨れ上がり、領民は逃散し、田畑は荒れる。藩を幕府に返上する案まで、真剣に検討されていたといいます。

そこへ、17歳の、外から来た若殿がやってきた。家中の空気は、推して知るべしです。

鍬を持った殿様

鷹山がまずやったことは、号令ではありませんでした。

自分の生活費を削ったのです。

藩主の年間経費を1500両から209両へ。7分の1以下です。奥女中は50人から9人へ。食事は一汁一菜、着るものは木綿。

昨日の土光敏夫の「個人は質素に、社会は豊かに」を、江戸時代の大名がやっている。

そして次に、自ら鍬を握って田に入りました。

殿様が、土を耕したのです。

さらに、荒れ地の開墾、漆・桑・楮の植樹、米沢織の育成。産業を興し、農民を呼び戻し、藩校「興譲館」を再興して、人を育てる仕組みを作りました。

そのすべての土台にあるのが、あまりにも有名なこの一首です。

為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の為さぬなりけり

やればできる、ではありません。

できないのは、やっていないからだ。

17歳で絶望的な藩を引き継いだ人間が言うと、重みが違います。

改革は、抵抗される

もちろん、順調ではありませんでした。

1773年、七家騒動が起こります。

譜代の重臣たちが、鷹山の改革は先祖の法に背くとして、藩主押込——つまり隠居の強要を迫ったのです。外から来た若い藩主に対する、真正面からの反乱でした。

鷹山はこれを退け、首謀者を処断します。

ここは大事な点だと思います。

彼は温厚な名君として知られますが、優しいだけの人ではありません。守るべきものを守るために、断つべきときは断っている。

月曜の出光佐三が「優しい愛情だけでは金持ちの坊ちゃんになってしまう」と言ったのと、まったく同じ構造です。

伝国の辞

そして、今日の核心です。

1785年、鷹山は家督を譲るにあたって、次の藩主へ三か条の訓戒を残しました。

「伝国の辞」です。

一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして、我私すべき物には無之候
一、人民は国家に属したる人民にして、我私すべき物には無之候
一、国家人民の為に立たる君にして、君の為に立たる国家人民には無之候

意味を訳せば、こうです。

国は、先祖から子孫へ渡していくものであって、藩主の私物ではない。

領民は国に属するのであって、藩主の私物ではない。

藩主は国と領民のために在るのであって、藩主のために国と領民が在るのではない。

240年前の、大名の言葉です。

これは単なる心構えではありません。次の代を縛る文書として残されました。

つまり鷹山は、自分の人格でも、自分の努力でもなく、「藩主とは何か」という定義そのものを書き換えて置いていったのです。

自分が去ったあとも、効き続けるように。

今週の四人が「自分の側で何かをした」人だとすれば、鷹山はそれを制度にして残した人でした。

言わなくても動くチームの、最終形がここにあると思います。

やり方ではなく、目的を残す

役が一年で変わる集まりでは、この構造がとくによく効きます。

自分の代でどれだけ熱量を注いでも、それが個人技のままなら、翌年には消えます。

逆に、「この集まりは何のためにあるのか」を言葉にして残せば、自分がいなくなっても機能する。

鷹山が書いたのは、やり方のマニュアルではありません。目的の定義です。

やり方は時代で変わる。定義は残る。

私が関わっている地域の行事も、長く続いてきました。続いてきたのは、誰か一人が頑張り続けたからではなく、「これは何のためにやるのか」が受け継がれてきたからだと思います。

引き継ぎ書に、手順だけを書いていないでしょうか。

おわりに

今日から持ち帰れることを、三つだけ。

1つめ。自分の取り分から、先に削ること。

号令より先に、生活費を7分の1にした人がいます。まず自分の分を減らす。順序は、いつもここからです。

2つめ。断つべきときは、断つこと。

温厚さと甘さは別物です。守るべきものを守るために、反対を押し切る場面は必ず来ます。

3つめ。やり方ではなく、目的を残すこと。

引き継ぎ書に手順だけ書いていないか。「何のためにやるのか」を、一行でいいので必ず添える。

——あなたが今の役を離れたとき、あとに残るのは、手順でしょうか。それとも、目的でしょうか。

(鷹山の「伝国の辞」を、今週の他の4人との共通点から振り返るまとめ記事です。5人の賢者――「やれ」と言う前に、彼らが済ませていたこと)

(藩は領民のもの――と定めた鷹山と同じ問いを、現代のプロスポーツで立てた人がいます。川淵三郎「クラブに、企業名を入れさせない」――そのチームは、誰のものか)

(「自分が去ったあとも効き続けるもの」を、村の堤防という形で残した人がいます。濱口梧陵「稲むらに火を放ち、4年かけて堤防を築いた」――語られない、そのあとの仕事)


この生き方を、もっと深く

鷹山の改革を、もう少し物語として味わいたい方へ。三冊、置いておきます。

『小説 上杉鷹山 全一冊』(集英社文庫・童門冬二) 改革の全体像を物語で追える一冊。まずはこれが読みやすいです。17歳の若者が何に囲まれていたのかが、そのまま伝わってきます。

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『上杉鷹山 人を活かし、人を動かす』(鈴村進) 「してみせて、言ってきかせて、させてみる」——鷹山の言葉から、人の動かし方を読み解く一冊。語録から入りたい方へ。

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『経営の行動指針 新訂——土光語録』(産業能率大学出版部・土光敏夫) 昨日の土光敏夫の著書。率先垂範から、続く仕組みへ。今週の流れをそのままたどれます。

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人物プロフィール:上杉鷹山(うえすぎ・ようざん)

1751年〜1822年。江戸時代中期の大名。出羽国米沢藩の第9代藩主。名は治憲(はるのり)、鷹山は隠居後の号。

日向高鍋藩主・秋月種美の次男として生まれ、10歳で米沢藩主・上杉重定の養子となる。17歳で家督を継いだ。

当時の米沢藩は、120万石時代の家臣団を15万石で抱えたまま巨額の負債を抱え、藩の返上さえ検討される状態にあった。鷹山は藩主の年間経費を1500両から209両に削り、自ら鍬を持って田に入るところから改革を始める。荒れ地の開墾、漆・桑・楮の植樹、米沢織の育成などの殖産興業と、藩校・興譲館の再興による人材育成を進めた。

1773年には重臣による反発(七家騒動)を受けたが、これを退けて改革を継続。1785年、家督を譲る際に「伝国の辞」三か条を残し、藩主は領民のために在るという考えを次代への文書として定めた。

「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」の一首で知られる。1822年、72歳で死去。

参考:ウィキペディア「上杉鷹山」

ENGLISH SUMMARY

Yozan Uesugi — Lord of the Yonezawa domain, Japan (1751–1822)

“If you act, it is done. If you do not act, it is not. Nothing is done, because no one does it.”

— Poem attributed to Uesugi / English translation by WA-IKU

Where he ruled: Yonezawa, Yamagata Prefecture

He inherited a domain so deep in debt that returning it to the shogunate was discussed.

He cut his own yearly expenses from 1,500 ryo to 209 and took a hoe to the fields himself.

In his farewell words he wrote that the domain and its people are held in trust, not owned.

働き盛りの会社員 × バスケコーチ × 地域活動家

~すべては、愛から~

和を敬い × 人を育て × 道を歩む。

和育道~wa-iku~

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上杉鷹山伝国の辞為せば成る米沢藩
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