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本日ご紹介するのは、自分がいなくなったあとのことを、文書にして残していった殿様です。
残したのは、やり方のマニュアルではありませんでした。
さて、どんな人だったのでしょうか。
自分の代では、うまくいった。
けれど、引き継いだ人の代で元に戻ってしまう。役が変わったとたん、積み上げたものが消えていく。
今週はここまで、四人を見てきました。
出光佐三は、先に守った。高嶋仁さんは、握る場所と離す場所を分けた。中江藤樹は、自分の在り方を正した。土光敏夫は、いちばんきつい所を自分で取った。
四人とも、「こうしろ」と命じる前に、自分の側で何かをしています。
しかし、ここには限界があります。その人がいなくなったら、どうなるのか。
去ったあとも動き続けるチームは、どう作るのか。その問いに、240年前に答えを出した人がいます。
石高は8分の1、家臣はそのまま
上杉鷹山(うえすぎ・ようざん)。1751年に生まれ、1822年に亡くなりました(72歳没)。出羽国米沢藩の第9代藩主です。
生まれは日向高鍋藩の次男。つまり、米沢の人ではありません。10歳で上杉家の養子となり、17歳で藩主となります。
引き継いだ米沢藩の状態は、控えめに言って絶望的でした。
かつては会津120万石を誇った名門です。それが度重なる減封で15万石に。
ところが、家臣の数は120万石時代のまま抱えていました。
石高は8分の1、人は同じ。借金は膨れ上がり、領民は逃散し、田畑は荒れる。藩を幕府に返上する案まで、真剣に検討されていたといいます。
そこへ、17歳の、外から来た若殿がやってきた。家中の空気は、推して知るべしです。
鍬を持った殿様
鷹山がまずやったことは、号令ではありませんでした。
自分の生活費を削ったのです。
藩主の年間経費を1500両から209両へ。7分の1以下です。奥女中は50人から9人へ。食事は一汁一菜、着るものは木綿。
昨日の土光敏夫の「個人は質素に、社会は豊かに」を、江戸時代の大名がやっている。
そして次に、自ら鍬を握って田に入りました。
殿様が、土を耕したのです。
さらに、荒れ地の開墾、漆・桑・楮の植樹、米沢織の育成。産業を興し、農民を呼び戻し、藩校「興譲館」を再興して、人を育てる仕組みを作りました。
そのすべての土台にあるのが、あまりにも有名なこの一首です。
為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の為さぬなりけり
やればできる、ではありません。
できないのは、やっていないからだ。
17歳で絶望的な藩を引き継いだ人間が言うと、重みが違います。
改革は、抵抗される
もちろん、順調ではありませんでした。
1773年、七家騒動が起こります。
譜代の重臣たちが、鷹山の改革は先祖の法に背くとして、藩主押込——つまり隠居の強要を迫ったのです。外から来た若い藩主に対する、真正面からの反乱でした。
鷹山はこれを退け、首謀者を処断します。
ここは大事な点だと思います。
彼は温厚な名君として知られますが、優しいだけの人ではありません。守るべきものを守るために、断つべきときは断っている。
月曜の出光佐三が「優しい愛情だけでは金持ちの坊ちゃんになってしまう」と言ったのと、まったく同じ構造です。
伝国の辞
そして、今日の核心です。
1785年、鷹山は家督を譲るにあたって、次の藩主へ三か条の訓戒を残しました。
「伝国の辞」です。
一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして、我私すべき物には無之候
一、人民は国家に属したる人民にして、我私すべき物には無之候
一、国家人民の為に立たる君にして、君の為に立たる国家人民には無之候
意味を訳せば、こうです。
国は、先祖から子孫へ渡していくものであって、藩主の私物ではない。
領民は国に属するのであって、藩主の私物ではない。
藩主は国と領民のために在るのであって、藩主のために国と領民が在るのではない。
240年前の、大名の言葉です。
これは単なる心構えではありません。次の代を縛る文書として残されました。
つまり鷹山は、自分の人格でも、自分の努力でもなく、「藩主とは何か」という定義そのものを書き換えて置いていったのです。
自分が去ったあとも、効き続けるように。
今週の四人が「自分の側で何かをした」人だとすれば、鷹山はそれを制度にして残した人でした。
言わなくても動くチームの、最終形がここにあると思います。
やり方ではなく、目的を残す
役が一年で変わる集まりでは、この構造がとくによく効きます。
自分の代でどれだけ熱量を注いでも、それが個人技のままなら、翌年には消えます。
逆に、「この集まりは何のためにあるのか」を言葉にして残せば、自分がいなくなっても機能する。
鷹山が書いたのは、やり方のマニュアルではありません。目的の定義です。
やり方は時代で変わる。定義は残る。
私が関わっている地域の行事も、長く続いてきました。続いてきたのは、誰か一人が頑張り続けたからではなく、「これは何のためにやるのか」が受け継がれてきたからだと思います。
引き継ぎ書に、手順だけを書いていないでしょうか。
おわりに
今日から持ち帰れることを、三つだけ。
1つめ。自分の取り分から、先に削ること。
号令より先に、生活費を7分の1にした人がいます。まず自分の分を減らす。順序は、いつもここからです。
2つめ。断つべきときは、断つこと。
温厚さと甘さは別物です。守るべきものを守るために、反対を押し切る場面は必ず来ます。
3つめ。やり方ではなく、目的を残すこと。
引き継ぎ書に手順だけ書いていないか。「何のためにやるのか」を、一行でいいので必ず添える。
——あなたが今の役を離れたとき、あとに残るのは、手順でしょうか。それとも、目的でしょうか。
(鷹山の「伝国の辞」を、今週の他の4人との共通点から振り返るまとめ記事です。5人の賢者――「やれ」と言う前に、彼らが済ませていたこと)
(藩は領民のもの――と定めた鷹山と同じ問いを、現代のプロスポーツで立てた人がいます。川淵三郎「クラブに、企業名を入れさせない」――そのチームは、誰のものか)
(「自分が去ったあとも効き続けるもの」を、村の堤防という形で残した人がいます。濱口梧陵「稲むらに火を放ち、4年かけて堤防を築いた」――語られない、そのあとの仕事)
この生き方を、もっと深く
鷹山の改革を、もう少し物語として味わいたい方へ。三冊、置いておきます。
『小説 上杉鷹山 全一冊』(集英社文庫・童門冬二) 改革の全体像を物語で追える一冊。まずはこれが読みやすいです。17歳の若者が何に囲まれていたのかが、そのまま伝わってきます。
『上杉鷹山 人を活かし、人を動かす』(鈴村進) 「してみせて、言ってきかせて、させてみる」——鷹山の言葉から、人の動かし方を読み解く一冊。語録から入りたい方へ。
『経営の行動指針 新訂——土光語録』(産業能率大学出版部・土光敏夫) 昨日の土光敏夫の著書。率先垂範から、続く仕組みへ。今週の流れをそのままたどれます。
人物プロフィール:上杉鷹山(うえすぎ・ようざん)
1751年〜1822年。江戸時代中期の大名。出羽国米沢藩の第9代藩主。名は治憲(はるのり)、鷹山は隠居後の号。
日向高鍋藩主・秋月種美の次男として生まれ、10歳で米沢藩主・上杉重定の養子となる。17歳で家督を継いだ。
当時の米沢藩は、120万石時代の家臣団を15万石で抱えたまま巨額の負債を抱え、藩の返上さえ検討される状態にあった。鷹山は藩主の年間経費を1500両から209両に削り、自ら鍬を持って田に入るところから改革を始める。荒れ地の開墾、漆・桑・楮の植樹、米沢織の育成などの殖産興業と、藩校・興譲館の再興による人材育成を進めた。
1773年には重臣による反発(七家騒動)を受けたが、これを退けて改革を継続。1785年、家督を譲る際に「伝国の辞」三か条を残し、藩主は領民のために在るという考えを次代への文書として定めた。
「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」の一首で知られる。1822年、72歳で死去。
