※本記事にはプロモーション(アフィリエイト広告)を含みます。

本日ご紹介するのは、江戸時代の商人です。
といっても、大きな商いで財を築いた人ではありません。むしろ、店を辞めてからの人生のほうが知られています。
彼が変えたのは、商売そのものではなく、商売の見られ方でした。
さて、どんな人だったのでしょうか。
学問には、道がありました。武芸にも道があった。茶にも、書にもあった。
では——商売には、道があったのか。
江戸の中頃まで、答えは「ない」でした。
士農工商の最下層。金を扱う者は卑しい、というのが世間の常識だったのです。
その常識を、たった一人でひっくり返した男がいます。
20年以上、現場にいた人
石田梅岩。1685年に生まれ、1744年に亡くなりました。石門心学の創始者です。
丹波国桑田郡東懸村——いまの京都府亀岡市の農家の次男として生まれました。長男ではないので、家は継げません。
11歳で京都へ出て、丁稚奉公。しかし奉公先が傾き、一度は故郷へ戻されます。
再び京都へ出たのは23歳のとき。呉服商・黒柳家に奉公し、そこで43歳まで、20年以上を勤め上げ、番頭にまでなりました。
ここが大事なところだと思います。
梅岩は、学者として商売を論じたのではありません。20年以上、現場で商いをやり抜いた人が、その経験から思想を組み上げたのです。
大野耐一がトヨタの現場に立ち続けたのと、同じ話だと思います。彼の言葉に重みがあるのは、そこに理由があります。
奉公のかたわら、彼は独学を続けていました。神道、儒教、仏教。夜、みなが寝静まってから書を読む生活を、20年。
40代で行き詰まった彼は、在家の仏教者・小栗了雲に出会い、師事します。そして45歳のとき、店を辞め、京都の借家である行動に出ました。
聴きに来たのが、一人だった夜
彼が始めたのは、自宅での講義でした。
しかも、聴講料は無料。出入りも自由。
当時としては異例なことに、女性が隣室で障子越しに聴くことも認めました。身分も問いません。
もちろん無料ですから、費用はすべて自腹です。生活は楽ではありませんでした。
そして、こんな夜があったと伝えられます。
その日、聴きに来たのは、たった一人。
あまりの少なさに恐縮した聴講者が、「今日は帰ります」と席を立とうとした。
梅岩は、こう言って引き止めたといいます。
私は誰もいない時は、机に向かって話している。あなたがいれば十分です
聴衆がゼロでも、彼は語っていた。
人数は、彼が続ける理由ではなかったのです。
昨日ご紹介した塙保己一が、誰に頼まれたわけでもない編纂を41年続けたのと、同じ地層にあります。
「先も立ち、我も立つ」
梅岩の主著が、1739年に刊行された『都鄙問答』です。問答形式で、商いと生き方を説きました。
当時、こんな批判がありました。
「商人は物を右から左へ動かして儲けているだけの、卑しい存在ではないか」
梅岩は、真っ向から反論します。
商人が利益を得るのは、武士が禄を受け取るのと同じである。物を必要な場所へ運び、必要な人に届けている。その働きに対する、正当な報酬だ、と。
そのうえで彼は、有名な一節を残しました。
まことの商人は、先も立ち、我も立つことを思うなり
本物の商人は、相手も立ち行き、自分も立ち行くことを考える。
一方が損をして成り立つ商売は、商売ではない。
近江商人の「三方よし」も、渋沢栄一の道徳経済合一説も、この延長線上にあります。梅岩が「江戸のドラッカー」と呼ばれるのは、そのためです。
屏風は、まっすぐだから立つ
もう一つ、私の好きな言葉があります。
商人と屏風は、直ぐには立たぬ
屏風は、まっすぐなままでは立ちません。少し折り曲げてこそ立つ——だから商人も少しは曲がっていい。世間では、そう取られていました。
梅岩は、これを聞き違いだと退けます。
屏風は、歪んでいれば畳むことすらできない。まっすぐだから立つのだ、と。
商人も、本心から正直でなければ、他人と並び立って通用しない。
同じことわざを、真逆に読み替えてみせた。ここに彼の胆力があると思います。
おわりに
「先も立ち、我も立つ」は、きれいごとではありません。
構造の話です。
相手だけが立つ取引は、続きません。自分が潰れるからです。
自分だけが立つ取引も、続かない。相手がいなくなるからです。
両方が立つ形を探すことだけが、長く続く唯一の道である。
これは、仕事の現場でも、指導する側とされる側でも、地域の集まりでも、まったく同じだと思います。
こちらが我慢して合わせ続ける関係は、いつか破綻します。相手を消耗させる関係も、いつか終わる。
月曜にご紹介した盛田昭夫が、目先の10万台を断って50年後の名前を取ったのも、これの一形態だと思います。相手のブランドだけが立つ取引を、彼は選ばなかった。
今日から使えることを、一つだけ。
交渉や調整の場で、「うちはこう、そちらはこう」で止めないこと。
「両方が立つ形はないか」と、あえて声に出して問う。この一言が、場の空気を変えます。
——あなたのいちばん長く続いている関係は、どちらも立っているでしょうか。
(「先も立ち、我も立つ」が、そのまま国際政治の調停に現れた例があります。新渡戸稲造「われ、太平洋の橋とならん」――あいだに立つ者は、両側から撃たれるも、あわせてどうぞ。)
(梅岩の「無料の講席」を、今週の他の4人との共通点から振り返るまとめ記事です。5人の賢者――今すぐの得を、手放した人たち)
(梅岩の「先も立ち、我も立つ」を、そのまま生きたような前半生の人がいます。商人として一つの人生を完走したあと、50歳で学び直しに出ました。伊能忠敬――55歳の一歩目が、日本の形になった)
この思想を、もっと知りたい方へ
『都鄙問答』(中公文庫・石田梅岩/加藤周一) 梅岩の主著です。問答形式なので、当時の批判と梅岩の反論がそのまま読めます。「まことの商人は、先も立ち、我も立つことを思うなり」の一節も、この本の中にあります。
人物プロフィール:石田梅岩(いしだ・ばいがん)
1685年〜1744年。江戸時代中期の思想家。石門心学の創始者。丹波国桑田郡東懸村(現在の京都府亀岡市)の農家の次男に生まれる。
11歳で京都へ丁稚奉公に出るが奉公先が傾き帰郷。23歳で再び京都へ出て呉服商・黒柳家に奉公し、43歳まで20年以上を勤めて番頭となった。その間、神道・儒教・仏教を独学で学び続けた。
45歳で店を辞め、京都の自宅で講義を始める。聴講料は無料、出入り自由、身分を問わず、女性の聴講も認めるという当時としては異例の形式だった。
1739年刊の『都鄙問答』で、商人の利益は武士の禄と同じ正当な報酬であると説き、商いに倫理の裏づけを与えた。その思想は石門心学として全国に広まり、近江商人の「三方よし」や渋沢栄一の道徳経済合一説にもつながっていく。
