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本日ご紹介するのは、江戸時代に生きた、一人の学者です。
この人が遺した仕事のかたちを、私たちは今日も使っています。文章を書くとき、原稿を数えるとき、たぶん無意識に。
しかも彼は、その仕事を、目が見えないまま成し遂げました。
さて、どんな人だったのでしょうか。
できない理由が、いくつも揃ってしまうことがあります。
時間がない。経験がない。お金がない。人手が足りない。
どれも嘘ではありません。だからこそ厄介で、そこで話が止まってしまう。
できない理由が山ほどあった人が、それでも41年かけて一つのことを成し遂げた話をします。
7歳で、光を失った
塙保己一。1746年に生まれ、1821年に亡くなった、江戸時代後期の国学者です。
生まれは武蔵国児玉郡保木野村。いまの埼玉県本庄市にあたります。
5歳で病を患い、7歳で完全に失明しました。
農家の長男でした。目が見えなければ、田畑は継げません。当時の常識では、生きる道はほとんど閉ざされたに等しかった。
15歳で江戸へ出て、雨富須賀一検校に入門します。当時、視覚に障害のある人が就ける数少ない仕事が、按摩や鍼、音曲でした。
ところが保己一は、そのどれも、まるで上達しませんでした。
不器用で、稼げない。世話になっている師匠にも申し訳が立たない。
このとき彼は、絶望の底で、自ら命を絶とうとまで思い詰めたと伝えられます。
そこで踏みとどまりました。
彼を救ったのは、慰めの言葉ではありませんでした。「まだ試していないことがある」——たったそれだけだったのだと思います。
残された一点に、賭ける
保己一には、たった一つだけ、人並外れたものがありました。
記憶力です。
耳から入った言葉を、そのまま蓄えることができた。所蔵していた書物の中身を、すべて覚えていたと伝えられます。
彼は、この一点に賭けました。
師の許しを得て学問の道へ進み、やがて国学者・賀茂真淵の門を叩きます。
そして40代半ば、生涯の大事業を思い立ちました。
日本各地に散らばっている古文書、歴史書、文学作品。このままでは、火災や戦乱で永遠に失われてしまう。
後世に、まとめて残さなければならない。
こうして始まったのが、『群書類従』の編纂でした。
41年と、17,244枚
考えてみてください。彼は、文字を見ることができません。
全国から書物を集めさせ、読み上げさせ、それを記憶し、頭の中で分類し、口述で校訂していく。
それを、41年。
完成した『群書類従』は666冊。収録された文献は1,200点を超えます。印刷用の版木は、17,244枚。
そしてこの版木を、彼は一枚あたり「20字×20行=400字」に統一しました。
これが、いま私たちが使う原稿用紙の原型になったといわれます。
彼は、文献を残しただけではありませんでした。
日本人が文章を書くための「枠」そのものを、遺していったのです。
ろうそくが消えた夜
保己一の人柄を伝える、有名な逸話があります。
和学講談所で『源氏物語』を講義していた、ある夏の夜のこと。暑さに耐えかねた弟子が障子を開けると、風でろうそくの火が消えてしまいました。
真っ暗闇です。弟子たちは慌てました。
けれど保己一は、何ごともなかったかのように講義を続けていた。弟子たちがあわてて事情を告げると、彼はこう言ったと伝えられます。
目が見えるということは、不自由なものだ
負け惜しみではないと思うのです。
自分の条件を、劣っているものとして引き受けていない。ただの条件として扱っている。
先日ご紹介したイチローが「壁は超えられる人にしかやってこない」と言ったのと、同じ地層にある一言だと思います。
そして晩年、保己一はこう語ったと伝わります。
盲目だったからこそ、これだけのことを成し遂げられたのだ、と。
海を越えて、届いていた
保己一の死から約60年後、アメリカで一人の少女が生まれます。
ヘレン・ケラーです。
彼女の母は、幼い娘にこう言い聞かせて育てました。
「塙保己一先生を、お手本にしなさい」
先日ご紹介したヘレン・ケラーが闇の中で目標にしていたのは、日本の江戸時代の学者だったのです。
1937年、初めて来日した彼女は、渋谷の温故学会を訪れます。そして保己一の座像と、彼が使っていた机に、体全体で触れました。
私は子どものころ、母から塙先生をお手本にしなさいと励まされて育ちました。今日、先生の像に触れることができたことは、日本訪問における最も有意義なことと思います
ちなみに、この温故学会の設立に尽力し、初代会長を務めたのが——渋沢栄一です。
塙保己一、ヘレン・ケラー、渋沢栄一。
三人が、渋谷の一室で交差していました。
おわりに
保己一が私たちに残す問いは、たぶんこれです。
「できない理由」と「まだ試していないこと」を、混ぜていないか。
彼には、できない理由が山ほどありました。目が見えない。按摩も下手。金もない。後ろ盾もない。
そのすべてを事実として認めたうえで、彼は残された一点だけに41年を注ぎました。
持っているものを数えるところからしか、道は始まらないのだと思います。
そしてもう一つ。
41年の事業も、初日は「今日の一枚」だったはずです。17,244枚のうちの、一枚目。
大事業は、初日から大事業には見えません。
——あなたに残されている「一点」は、何でしょうか。
(保己一の「41年」を、今週の他の4人との共通点から振り返るまとめ記事です。5人の賢者――今すぐの得を、手放した人たち)
(保己一が亡くなった1821年は、伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』が幕府に提出された年でもあります。江戸の同じ空の下で、41年の男と17年の男が、それぞれの仕事を終えていました。伊能忠敬――55歳の一歩目が、日本の形になった)
(41年、17年。数え続けた人をもう一人。御木本幸吉「17年、海に沈め続けた」――3年で「向いていない」と決めていないか)
この人物を、もっと知りたい方へ
『改訂版 素顔の塙保己一 盲目の学者を支えた女性たち』(埼玉新聞社・堺正一) 著者は塙保己一の研究を長く続けてきた方です。偉人としてではなく、支えた人たちの側から保己一の生涯を描いた一冊。ヘレン・ケラーとの縁も、この本でたどれます。
人物プロフィール:塙保己一(はなわ・ほきいち)
1746年〜1821年。江戸時代後期の国学者。武蔵国児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市)生まれ。
5歳で病により視力を失いはじめ、7歳で完全に失明。15歳で江戸に出て雨富須賀一検校に入門するが、按摩や鍼は上達せず、学問の道へ進んだ。賀茂真淵に国学を学ぶ。
散逸のおそれがあった古文書・歴史書・文学作品を後世に残すため、『群書類従』の編纂に着手。約41年をかけて666冊を完成させた。版木17,244枚は現存し、国の重要文化財に指定されている。和学講談所を開き、後進の育成にもあたった。
版木の「20字×20行」の様式は、のちの原稿用紙の原型になったといわれる。ヘレン・ケラーが幼少期から目標としていた人物としても知られ、1937年の来日時には渋谷の温故学会を訪れている。
