和育道〜wa-iku〜
道の章

ヘレン・ケラー――言葉を得た瞬間、世界が生まれた

うまく、言葉にできない。胸にもやもやがあるのに、それが何なのか説明できない。生後19か月で視力と聴力を失ったヘレン・ケラーは「そこには言葉がなく、意味がなかった」と書きました。1887年4月5日、ポンプ小屋で手のひらに綴られた「w-a-t-e-r」。その日30語、3週間で100語を超えた少女の物語から、言葉にすることの意味を考えます。

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ポンプから流れる水を受けとめる手のひらと、足もとに落ちたマグカップ(イメージ挿絵:和育道)
ポンプから流れる水を受けとめる手のひらと、足もとに落ちたマグカップ(イメージ挿絵:和育道)

うまく、言葉にできない。

胸の中にもやもやとしたものがあるのに、それが何なのか説明できない。相手に伝えたいことがあるのに、口を開くと違うものになってしまう。

そんなもどかしさを感じたこと、ありませんか。

私たちはつい、「言葉は、考えを表現する道具にすぎない」と思っています。

けれど――言葉がなければ、そもそも世界は存在しないのだとしたら、どうでしょう。

そのことを、生涯をかけて証明した人がいます。

ヘレン・ケラー。生後19か月で、視力と聴力を失った女性です。

言葉のない世界

ヘレンは1880年、アメリカ・アラバマ州タスカンビアに生まれました。

健康な赤ん坊でしたが、生後19か月のとき高熱に襲われ、視力と聴力を失います。

そして――言葉を覚える前に聞こえなくなったため、話すこともできなくなりました。

見えない。聞こえない。話せない。

外界とつながる手段を失った少女は、荒れました。

食事中に他人の皿から手づかみで食べる。気に入らないことがあれば、床に転がって暴れる。家族は彼女を制御できず、けれど憐れみから叱ることもできませんでした。

言葉がない。だから、意味もなかった。

そんな彼女のもとに、一人の家庭教師がやってきます。

アン・サリバン、20歳。彼女自身、幼いころにトラコーマという目の病気で視力を大きく損ない、救貧院で育った女性でした。

与えられた仕事は、暴れる六歳の少女に、言葉を教えること。誰にもできなかったことでした。

「w-a-t-e-r」――世界が生まれた瞬間

サリバンは、ヘレンの手のひらに、指で文字を書き続けました。

けれどヘレンには、それが何を意味するのか分かりません。ただの遊びだと思っていました。

数週間、何の進展もありませんでした。

そして――あの日が訪れます。

1887年4月5日。日付まで分かっているのは、サリバンがその日のうちに、知人への手紙にこの出来事を書き残していたからです。

彼女はヘレンを、屋外のポンプ小屋へ連れて行きました。ヘレンの手には、マグカップが持たされています。

サリバンがポンプを漕ぐ。冷たい水が、マグからあふれてヘレンの手を流れていく。その手に、もう一方の手のひらへ「w-a-t-e-r」と、繰り返し綴りました。

サリバンは、その瞬間をこう書いています。

冷たい水が手の上を流れる感覚のすぐあとに、その言葉が来たことが、彼女を驚かせたようでした。

ヘレンは、持っていたマグカップを落としました。

そして彼女は後に、この瞬間を自分の言葉でこう記しています。

突然、忘れていた何かの意識が戻ってきた。言葉の神秘が、私に明かされた瞬間だった。「w-a-t-e-r」とは、私の手の上を流れる、この素晴らしく冷たい何かを意味するのだ。

この瞬間から、ヘレンの世界は爆発的に広がります。

その日一日で、彼女は30の単語を覚えました。そして三週間のうちに、語彙は100語を超えたといいます。

言葉を得ることは、世界を得ることだった。

これは、私たちにも当てはまります。

言葉にできないものは、存在しないのと同じです。名前がつかない感情は、扱うことができません。けれど「これは焦りだ」「これは寂しさだ」と言葉にできた瞬間、それは初めて向き合える対象になります。

言葉を得た瞬間、世界は姿を現すのです。

影は消えない。けれど、どちらを向くかは選べる

ヘレン・ケラーには、23歳のときに書いた『楽天主義』というエッセイがあります。

その中に、こんな一節があります。

世界は苦しみに満ちている。けれど、それを乗り越えることにも満ちている。

そして彼女は、こう続けました。

私の楽天主義は、悪が存在しないことの上に成り立っているのではない。

ここが、大事なところだと思います。

彼女の楽観主義は、能天気なものではありませんでした。悪も苦しみも、そこに確かにあると認めたうえでの――選択でした。

そして、彼女の言葉として世界中で語り継がれている一言が、これです。

顔を太陽の方に向けていれば、影は見えない。

ただし、正直に書いておきます。この一文は、ヘレン・ケラー自身の著作の中からは見つかっていません。アメリカ盲人財団の専門家も出典を特定できておらず、1920年代の新聞では、詩人ウォルト・ホイットマンの言葉として紹介されたこともありました。

それでも百年ものあいだ、この一行が彼女の言葉として語り継がれてきたのは――それが、彼女の生き方そのものだったからだと思います。

これは「影がない」と言っているのではありません。

影は、確実に存在する。けれど、どちらを向くかは、自分で選べる。

強制収容所を生き延びた精神科医フランクルも、同じことを言っています。すべてを奪われても、最後まで残るのは「それにどう向き合うかを選ぶ自由」だ、と。(フランクルを含む「5人の天才」の記事はこちら)

ヘレンは、視力も聴力も奪われました。

けれど、どちらを向くかという自由だけは、誰にも奪えなかったのです。

置かれた場所は、選べないことがあります。それでも、そこでどう咲くかは選べる――同じことを説いた人が、日本にもいました。(渡辺和子「置かれた場所で咲きなさい」の記事はこちら)

「安全とは、大部分において迷信である」

彼女の言葉で、もう一つ印象的なものがあります。

安全とは、大部分において迷信である。人生は、大胆な冒険か、無かのどちらかだ。

ヘレンは大学を優秀な成績で卒業した後、講演活動を始めます。

そして、見えない・聞こえない身で、世界の多くの国を巡り、講演して回りました。当時、障害のある女性が公の場で発言すること自体が、極めて異例でした。

さらに彼女は、障害者の権利だけでなく、女性の権利や労働者の問題にも積極的に発言します。

そのため、激しい批判にもさらされました。

それでも彼女は、安全な場所に留まることを選びませんでした。

挑戦しなければ、失敗もしません。けれど、何も得られない。何もしないことのほうを恐れた人が、日本の町工場にもいました。(本田宗一郎の記事はこちら)

今を生きる私たちへ

ヘレン・ケラーの生き方は、私たちの日常にそのまま効きます。

もやもやを、言葉にしてみる。 名前のつかない不安は、扱えません。「何が嫌だったのか」を一言にしてみるだけで、驚くほど楽になります。言語化は、才能ではなく技術です。

どちらを向くか、自分で決める。 影は必ずあります。それを消すことはできません。けれど、太陽を向くか影を向くかは、いつでも自分で選べます。

「安全」に、閉じこもりすぎない。 何もしなければ失敗もしません。けれど、何も生まれない。小さくていいので、少しだけ踏み出してみる。

目に見えないものを、大切にする。 思いやり、信頼、誰かが見ていないところでの努力。数字にも記録にもならないものが、実は人生を支えています。

おわりに

ヘレン・ケラーは、87歳で亡くなるまで活動を続けました。

彼女は3度、日本を訪れています。戦後まもない1948年、焦土となった日本を訪れた際には、日本は必ず立ち上がると信じている、困難は人を強くする――そう語ったと伝えられます。

その来日は、当時の日本の障害者福祉に大きな影響を与えました。

そして彼女は、こんな言葉を遺しています。

世界で最も美しいものは、目で見たり手で触れたりできない。それは、心で感じるものだ。

見えない、聞こえない人が、そう言いました。

その言葉には、五感が揃っている私たちにはない、深い洞察があります。

この一文には、はっきりした出どころがあります。1891年6月8日、11歳のヘレンが、フィリップス・ブルックスという牧師に宛てて書いた手紙です。自伝にも収められています。

そして――ここが、いちばん胸を打つところなのですが。ヘレンはこれを、自分が考えたこととしてではなく、こう書いていました。

先生が、世界でいちばん美しいものは目で見ることも手で触れることもできなくて、ただ心で感じるものなのだ、と教えてくれたとき、わたしがどんなに幸せだったか。

「w-a-t-e-r」を教えたあの先生が、この言葉も渡していたのです。

水から始まった物語は、心で感じるものへとたどり着く。その両端に、同じ人が立っていました。

私たちは、見えるものだけを見て、聞こえるものだけを聞いています。

けれど本当に大切なものは、目にも耳にも入らないところにあるのかもしれません。

人の思いやり。信頼。積み重ねた時間。誰も見ていないところでした努力。

これらは、目には見えません。

けれど確かに存在し、誰かの毎日を、静かに支えています。

子どもたちを見ていて思うのは、うまく言えない子ほど、内側にたくさん抱えているということです。「べつに」「わからん」の一言の下に、本当は言いたいことがある。

だから、急かさずに待つ。そして、こちらが先に言葉にしてみる。「悔しかったんかな」と。違えば首を振ってくれるし、当たっていれば、そこから話が始まります。

誰かの手のひらに、そっと言葉を書くようなものかもしれません。

今日も、目に見えないものを大切にしながら、歩んでいきましょう。

(ヘレンが得た「手段」を、他の4人との共通点から振り返るまとめ記事です。5人の賢者――「頑張れ」と言わなかった彼らが、代わりに変えたもの)

(彼女が幼い頃から目標にしていたのは、江戸時代の日本人でした。7歳で失明し、41年かけて666冊を編んだ学者です。塙保己一――ヘレン・ケラーが目標にした、7歳で光を失った日本人も、あわせてどうぞ。)

この人物を、もっと知りたい方へ

ヘレン・ケラー自身が書いた自伝が、いまも読めます。

原題は『The Story of My Life』。かつては『わたしの生涯』の題で親しまれましたが、現在、新刊で手に入るのは新訳版で、題名が『奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝』に変わっています。中身は同じ、彼女自身の記録です。

「w-a-t-e-r」の瞬間をどう感じたのか。言葉を得て、世界がどう変わったのか。当事者にしか書けない描写が、静かな衝撃をもって迫ってきます。感動的な物語としてではなく、「言葉とは何か」を考えさせる一冊として読む価値があります。

言葉を得た瞬間に世界が生まれた――その意味を知った今なら、その一行一行が、より深く胸に届くはずです。

『奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝』(新潮文庫・ヘレン・ケラー/小倉慶郎 訳)

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人物プロフィール:ヘレン・ケラー

  • 氏名:ヘレン・アダムス・ケラー(Helen Adams Keller)
  • 生没年:1880年 ― 1968年/アメリカ・アラバマ州タスカンビア生まれ
  • 分野:著作家・教育者・社会運動家
  • 経歴・功績

  • 生後19か月のときの高熱により、視力と聴力を失う。言葉を覚える前だったため、話すこともできなくなった。
  • 6歳のとき、家庭教師としてアン・サリバンを迎える。サリバン自身も幼少期にトラコーマで視力を大きく損なった経験を持っていた。
  • 1887年4月5日、ポンプ小屋で手のひらに「w-a-t-e-r」と綴られた出来事をきっかけに言葉を理解し、その日のうちに30語、三週間で100語を超える語彙を得た。
  • 話す訓練にも取り組み、点字による読書を通じて学問を修めた。
  • 1904年、ラドクリフ・カレッジ(ハーバード大学の女子カレッジ)を卒業。視覚と聴覚に障害のある人物として初めて学士号を取得したとされる。
  • 著述・講演活動を通じて、障害者の権利向上に生涯を捧げた。世界各国を訪問し、日本にも3度来日している(1937年、1948年、1955年)。
  • 障害者福祉のみならず、女性の権利や労働問題など幅広い社会問題にも発言した。
  • 1964年、アメリカ大統領自由勲章を受章。
  • 自伝『The Story of My Life』をはじめ多くの著作を残した。彼女とサリバンの物語は『奇跡の人』として舞台・映画にもなっている。
  • ひとことで:言葉のない闇の世界から「w-a-t-e-r」の一語をきっかけに世界を獲得し、生涯にわたって「どちらを向くかは自分で選べる」と示し続けた著作家・社会運動家。

    参考:ウィキペディア「ヘレン・ケラー」

    働き盛りの会社員 × バスケコーチ × 地域活動家

    ~すべては、愛から~

    和を敬い × 人を育て × 道を歩む。

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