和育道〜wa-iku〜
和の章

川淵かわぶち三郎さぶろう「クラブに、企業名を入れさせない」――そのチームは、誰のものか

Jリーグの発足にあたって、彼はクラブ名から企業名を外すことを条件にしました。お金は出してください、ただし名前は出さないでください——猛烈な反発が起きます。それでも譲らなかったのは、会社は撤退できても、町は撤退できないからでした。30年後の風景を作った、一行のルールの話です。

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照明が点く前の地方のサッカー場。客席にまばらに座る人たちの後ろ姿(イメージ挿絵:和育道)
照明が点く前の地方のサッカー場。客席にまばらに座る人たちの後ろ姿(イメージ挿絵:和育道)

本日ご紹介するのは、日本中の町にプロのスポーツクラブがある、いまの風景を作った人です。

その決め手になったのは、たった一行のルールでした。

さて、どんなルールだったのでしょうか。

昨日の小林一三は、乗る客がいない沿線に「住む理由」を先に作りました。

今日は、その競技版です。

日本には長いあいだ、プロサッカーリーグがありませんでした。

あったのは実業団のリーグです。観客は数百人。スタンドはがらがら。

そこに一人の男が、いまの日本の風景を作る決断をします。

社員として働きながら、代表監督もやっていた人

川淵三郎(かわぶち・さぶろう)。1936年生まれ。Jリーグの初代チェアマンです。

大阪府高石市の生まれ。早稲田大学から古河電気工業へ進み、日本代表として1964年の東京オリンピックに出場しました。

日本サッカーがメキシコで銅メダルを獲るのは、その4年後。彼はその少し前の世代にあたります。

引退後は会社員として働きながら、日本代表の監督も務めました。

そして1991年、プロリーグ設立準備室の中心となり、1993年5月15日、Jリーグが開幕します。

10クラブ。舞台は国立競技場。ここから日本のサッカーが変わりました。

けれど今日の話は、開幕の華やかさではありません。

その前に彼が押し通した、たった一つのルールについてです。

「クラブ名に、企業名を入れない」

Jリーグの発足にあたって、川淵はクラブ名から企業名を外すことを条件にしました。

これがどれほど無茶な要求か、少し想像してみてください。

当時のチームは、すべて実業団です。会社が金を出し、社員が選手をやっている。

その会社に向かって、「お金は出してください。ただし名前は出さないでください」と言っているわけです。

当然、猛烈な反発が起きました。

とくに大きかったのが、読売クラブをめぐる対立です。親会社の側は、企業名を掲げるのが当然だという立場を崩さず、論争は長く尾を引きました。

それでも川淵は、譲りませんでした。

なぜか。

企業名がついていれば、そのクラブは会社のものです。

会社の業績が傾けば、消える。本社が移転すれば、消える。

けれど地名なら——町のものになる。

会社は撤退できますが、町は撤退できません。

クラブを、町に預けたのです。

百年構想は、サッカーの話をしていない

その思想を形にしたのが「Jリーグ百年構想」です。

掲げられているのは、強化計画ではありません。

あなたの町に、緑の芝生におおわれた運動場を。サッカーだけでなく、あらゆるスポーツを楽しめる環境を。「観る」「する」「支える」——スポーツを通じた地域の交流を。

スローガンは、こうです。

スポーツで、もっと、幸せな国へ。

サッカーの話を、していません。

町の話をしています。

そして30年が経ちました。

いまJリーグは60クラブの規模に広がり、北海道から沖縄まで、地方都市にプロクラブがあります。

町の子どもが、自分の町のチームのユニフォームを着ている。休日に、歩いてスタジアムへ行く人がいる。

30年前には、考えられなかった景色です。

これが「風景を変えた」ということだと思います。

そのチームは、誰のものか

ここで、指導する側の視点から考えたいことがあります。

川淵が守ったのは、強さではなく、続くことでした。

企業名を許していれば、発足はもっと楽だったはずです。お金も集まりやすい。

けれどそれは、先週の上杉鷹山「伝国の辞」と、まったく同じ構造です。

鷹山は、藩は藩主の私物ではないと定義しました。

川淵は、クラブは企業の私物ではないと定義した。

二人とも、自分が去ったあとに残るように、所有の形を先に決めています。

短期的には、摩擦しか生みません。実際、川淵は激しく批判されました。

それでも、定義を守った人だけが、30年後の風景を作れる。

私が関わっているバスケットボールの現場でも、これは考えさせられます。

このチームは、誰のものか。

監督のものか。学校のものか。それとも、選手と地域のものか。

答えを言葉にしているかどうかで、自分が去ったあとが変わります。

おわりに

今日から持ち帰れることを、三つだけ。

1つめ。「誰のものか」を、先に決めること。

チーム、委員会、現場の班。所有者を曖昧にしたまま走ると、言い出した人が辞めた瞬間に消えます。

2つめ。楽な条件を、あえて外すこと。

発足を優先すれば、妥協はできました。それでも外した一点が、30年後に効いています。

3つめ。強化ではなく、環境を語ること。

百年構想は、勝利を語っていません。芝生と交流を語っています。子どもたちに「勝ち方」以外の言葉を渡せているでしょうか。

——あなたがいま関わっているものは、誰のものだと言えるでしょうか。

(自分の代で完成を見ない仕事、という点では同じ道を、教職を捨てて農民の側に降りた人も歩いています。宮沢賢治「教師をやめて、田んぼに降りた」――見届けられなくても、やるのか)

(川淵の「そのチームは誰のものか」を、今週の他の4人との共通点から振り返るまとめ記事です。5人の賢者――その一人は、たいてい無名だった)


この考え方を、もっと深く

「誰のものか」を決めることについて、二冊置いておきます。

『独裁力』(幻冬舎・川淵三郎) 本人の著書。「私欲のない独裁者。それがリーダーの条件だ」という一冊で、企業名を押し切った側の理屈がそのまま読めます。

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『夢を力に キャプテンから未来のヒーローたちへ』(春陽堂書店・川淵三郎) 子どもたちへ向けた見開き52話。難しい組織論ではなく、これから始める人に渡す言葉が並びます。

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『小説 上杉鷹山 全一冊』(集英社文庫・童門冬二) 「国は藩主の私物ではない」と定義して残した人の物語。企業名を外した判断と、並べて読んでみてください。

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人物プロフィール:川淵三郎(かわぶち・さぶろう)

1936年生まれ。大阪府高石市出身。サッカー選手・指導者・スポーツ団体経営者。

早稲田大学から古河電気工業へ。日本代表として1964年の東京オリンピックに出場した。引退後は会社員として働きながら日本代表監督も務めている。

1991年、日本初のプロサッカーリーグ設立準備の中心となり、1993年5月15日のJリーグ開幕を初代チェアマンとして迎えた。発足にあたってクラブ名から企業名を外すことを条件とし、強い反発を受けながらもこれを貫いた。

地域に根ざしたスポーツクラブづくりを掲げる「Jリーグ百年構想」を提唱。のちに日本サッカー協会会長、日本バスケットボール協会会長なども務めた。

参考:ウィキペディア「川淵三郎」

働き盛りの会社員 × バスケコーチ × 地域活動家

~すべては、愛から~

和を敬い × 人を育て × 道を歩む。

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