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本日ご紹介するのは、日本中の町にプロのスポーツクラブがある、いまの風景を作った人です。
その決め手になったのは、たった一行のルールでした。
さて、どんなルールだったのでしょうか。
昨日の小林一三は、乗る客がいない沿線に「住む理由」を先に作りました。
今日は、その競技版です。
日本には長いあいだ、プロサッカーリーグがありませんでした。
あったのは実業団のリーグです。観客は数百人。スタンドはがらがら。
そこに一人の男が、いまの日本の風景を作る決断をします。
社員として働きながら、代表監督もやっていた人
川淵三郎(かわぶち・さぶろう)。1936年生まれ。Jリーグの初代チェアマンです。
大阪府高石市の生まれ。早稲田大学から古河電気工業へ進み、日本代表として1964年の東京オリンピックに出場しました。
日本サッカーがメキシコで銅メダルを獲るのは、その4年後。彼はその少し前の世代にあたります。
引退後は会社員として働きながら、日本代表の監督も務めました。
そして1991年、プロリーグ設立準備室の中心となり、1993年5月15日、Jリーグが開幕します。
10クラブ。舞台は国立競技場。ここから日本のサッカーが変わりました。
けれど今日の話は、開幕の華やかさではありません。
その前に彼が押し通した、たった一つのルールについてです。
「クラブ名に、企業名を入れない」
Jリーグの発足にあたって、川淵はクラブ名から企業名を外すことを条件にしました。
これがどれほど無茶な要求か、少し想像してみてください。
当時のチームは、すべて実業団です。会社が金を出し、社員が選手をやっている。
その会社に向かって、「お金は出してください。ただし名前は出さないでください」と言っているわけです。
当然、猛烈な反発が起きました。
とくに大きかったのが、読売クラブをめぐる対立です。親会社の側は、企業名を掲げるのが当然だという立場を崩さず、論争は長く尾を引きました。
それでも川淵は、譲りませんでした。
なぜか。
企業名がついていれば、そのクラブは会社のものです。
会社の業績が傾けば、消える。本社が移転すれば、消える。
けれど地名なら——町のものになる。
会社は撤退できますが、町は撤退できません。
クラブを、町に預けたのです。
百年構想は、サッカーの話をしていない
その思想を形にしたのが「Jリーグ百年構想」です。
掲げられているのは、強化計画ではありません。
あなたの町に、緑の芝生におおわれた運動場を。サッカーだけでなく、あらゆるスポーツを楽しめる環境を。「観る」「する」「支える」——スポーツを通じた地域の交流を。
スローガンは、こうです。
スポーツで、もっと、幸せな国へ。
サッカーの話を、していません。
町の話をしています。
そして30年が経ちました。
いまJリーグは60クラブの規模に広がり、北海道から沖縄まで、地方都市にプロクラブがあります。
町の子どもが、自分の町のチームのユニフォームを着ている。休日に、歩いてスタジアムへ行く人がいる。
30年前には、考えられなかった景色です。
これが「風景を変えた」ということだと思います。
そのチームは、誰のものか
ここで、指導する側の視点から考えたいことがあります。
川淵が守ったのは、強さではなく、続くことでした。
企業名を許していれば、発足はもっと楽だったはずです。お金も集まりやすい。
けれどそれは、先週の上杉鷹山「伝国の辞」と、まったく同じ構造です。
鷹山は、藩は藩主の私物ではないと定義しました。
川淵は、クラブは企業の私物ではないと定義した。
二人とも、自分が去ったあとに残るように、所有の形を先に決めています。
短期的には、摩擦しか生みません。実際、川淵は激しく批判されました。
それでも、定義を守った人だけが、30年後の風景を作れる。
私が関わっているバスケットボールの現場でも、これは考えさせられます。
このチームは、誰のものか。
監督のものか。学校のものか。それとも、選手と地域のものか。
答えを言葉にしているかどうかで、自分が去ったあとが変わります。
おわりに
今日から持ち帰れることを、三つだけ。
1つめ。「誰のものか」を、先に決めること。
チーム、委員会、現場の班。所有者を曖昧にしたまま走ると、言い出した人が辞めた瞬間に消えます。
2つめ。楽な条件を、あえて外すこと。
発足を優先すれば、妥協はできました。それでも外した一点が、30年後に効いています。
3つめ。強化ではなく、環境を語ること。
百年構想は、勝利を語っていません。芝生と交流を語っています。子どもたちに「勝ち方」以外の言葉を渡せているでしょうか。
——あなたがいま関わっているものは、誰のものだと言えるでしょうか。
(自分の代で完成を見ない仕事、という点では同じ道を、教職を捨てて農民の側に降りた人も歩いています。宮沢賢治「教師をやめて、田んぼに降りた」――見届けられなくても、やるのか)
(川淵の「そのチームは誰のものか」を、今週の他の4人との共通点から振り返るまとめ記事です。5人の賢者――その一人は、たいてい無名だった)
この考え方を、もっと深く
「誰のものか」を決めることについて、二冊置いておきます。
『独裁力』(幻冬舎・川淵三郎) 本人の著書。「私欲のない独裁者。それがリーダーの条件だ」という一冊で、企業名を押し切った側の理屈がそのまま読めます。
『夢を力に キャプテンから未来のヒーローたちへ』(春陽堂書店・川淵三郎) 子どもたちへ向けた見開き52話。難しい組織論ではなく、これから始める人に渡す言葉が並びます。
『小説 上杉鷹山 全一冊』(集英社文庫・童門冬二) 「国は藩主の私物ではない」と定義して残した人の物語。企業名を外した判断と、並べて読んでみてください。
人物プロフィール:川淵三郎(かわぶち・さぶろう)
1936年生まれ。大阪府高石市出身。サッカー選手・指導者・スポーツ団体経営者。
早稲田大学から古河電気工業へ。日本代表として1964年の東京オリンピックに出場した。引退後は会社員として働きながら日本代表監督も務めている。
1991年、日本初のプロサッカーリーグ設立準備の中心となり、1993年5月15日のJリーグ開幕を初代チェアマンとして迎えた。発足にあたってクラブ名から企業名を外すことを条件とし、強い反発を受けながらもこれを貫いた。
地域に根ざしたスポーツクラブづくりを掲げる「Jリーグ百年構想」を提唱。のちに日本サッカー協会会長、日本バスケットボール協会会長なども務めた。
