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本日ご紹介するのは、命令もせず、規則も作らず、村ひとつを変えてしまった人です。
やったことは、驚くほど地味でした。むしろ、何もしていないと言ってもいいくらいです。
さて、どんな人だったのでしょうか。
チームが動かない。言っても伝わらない。
そういうとき、私たちはつい、仕組みのほうを疑います。ルールが足りないのか、評価の仕方が悪いのか、伝え方が下手なのか。
けれど、順番が逆かもしれません。
昨日は高嶋仁さんの「握る場所と離す場所を分ける」を見ました。では、握りも離しもせず、ただ自分が正しく在っただけで、まわりが変わった人はいるのか。
います。しかも、その影響は村全体に及びました。
27歳で、脱藩する
中江藤樹(なかえ・とうじゅ)。1608年に生まれ、1648年に亡くなりました(41歳没)。日本の陽明学の祖とされる人です。
近江国小川村——現在の滋賀県高島市の農家に生まれました。
9歳で、米子藩士だった祖父の養子となり、やがて伊予大洲藩(現在の愛媛県)へ移ります。そこで武士として仕えました。
学問に打ち込み、若くして頭角を現します。このまま行けば、藩の重臣です。
ところが27歳のとき、彼は驚くべき行動に出ます。
脱藩したのです。
理由は、故郷に一人で残した母のためでした。
当時、脱藩は重罪です。しかも彼は将来を嘱望されていた。すべてを捨てた形になります。
そして小川村に戻り、そこで生涯を終えるまでの十数年を過ごしました。
何も始めていないのに、村が変わった
村に戻った藤樹は、とくに大きなことを始めていません。
母を養い、私塾で学びを説き、村人の相談に乗る。それだけです。
ところが、村が変わっていきました。
まず、若者たちが集まってくる。やがて周辺の村からも人が来る。争いごとが減り、落とし物が返ってくる村になった。
彼の死後、人々は彼を「近江聖人」と呼びました。
有名な逸話があります。
ある飛脚が、大金の入った荷物を宿に置き忘れたまま去ってしまった。それを見つけた馬子が、何十キロもの道を走って追いかけ、届けたというのです。
飛脚が礼金を渡そうとすると、馬子はこう言って受け取らなかった。
私はただ、当たり前のことをしただけだ
驚いた飛脚が「この村はなぜこうなのか」と問うと、村人はこう答えたと伝わります。藤樹先生の教えがあるからだ、と。
藤樹は、村人に「正直であれ」と命令していません。規則も作っていません。
彼はただ、自分がそう在った。それだけで、村が変わった。
五事を正す
藤樹が説いた教えの中心が、「五事を正す」です。
五事とは、次の五つ。
貌(ぼう)——和やかな顔つきをする。
言(げん)——思いやりのある言葉で話す。
視(し)——澄んだ目で相手を見る。
聴(ちょう)——耳を傾けてよく聴く。
思(し)——真心をこめて相手を思う。
いかがでしょうか。
高尚な哲学は、一つもありません。顔つき、言葉、目、耳、心。全部、今日この瞬間からできることです。
しかもこの五つは、すべて「相手に向かう自分」の話です。自分を高めるための修養ではなく、人と接するときの自分の整え方。
そして藤樹は、こう説きました。学問とは、心の汚れを清め、行いを良くすることを本体とする、と。
知識を蓄えることではない。知ったことと、やることが一致していなければ意味がない。
これが陽明学の「知行合一(ちこうごういつ)」です。
月曜の出光佐三が「先に守る」で社員を動かしたのに対して、藤樹は「自分の顔つきと言葉」で村を変えました。
もっとも小さく、もっとも早く効く方法だと思います。
まず、自分の顔つきから
正直に申し上げると、私はこの「五事」に耳が痛くなります。
急いでいるとき、自分の貌はどうなっているか。
指示を出すとき、本当に澄んだ目で相手を見ているか。
人の話を聴いているとき、次に自分が何を言うかを考えていないか。
チームが動かないとき、私たちはつい仕組みや制度を疑います。しかし藤樹に言わせれば、順序が逆です。
まず、自分の顔つきから。
考えてみれば、人が「この人の言うことなら」と思う瞬間は、たいてい理屈ではありません。
いつも機嫌がいい。話をちゃんと聴いてくれる。目を見て話す。
それだけで、人は動きます。逆に、どれだけ正論でも、不機嫌な人の言葉は入ってきません。
言わなくても動くチームは、たぶん、いちばん前に立つ人の顔つきから始まっています。
最澄の「一隅を照らす」も、同じところを指していたのだと思います。大きなことをする前に、自分のいる場所を明るくする。
おわりに
今日から持ち帰れることを、三つだけ。
1つめ。今日は「貌」だけを意識すること。
五つ全部は無理です。今日は顔つきだけ。人の前に立つ前に、一度肩を落として、息を吐く。それだけで違います。
2つめ。聴いているときに、次の発言を考えないこと。
五事のなかで、いちばん難しいのが「聴」です。相手が話し終わるまで、自分の答えを組み立てない。
3つめ。知ったことを、一つだけやること。
知行合一です。この記事を「なるほど」で終わらせず、五事のどれか一つを、今日のうちに一回だけやってみる。
——あなたが今日いちばん多く見せた顔は、どんな顔だったでしょうか。
(昨日の「知行合一」が、そのまま昭和の財界に現れた話です。土光敏夫「私はそれ以上に働く」――上にいくほど、重くする)
(藤樹の「五事を正す」を、今週の他の4人との共通点から振り返るまとめ記事です。5人の賢者――「やれ」と言う前に、彼らが済ませていたこと)
(藤樹の「知行合一」を、教壇を降りるという形でやり切った人がいます。宮沢賢治「教師をやめて、田んぼに降りた」――見届けられなくても、やるのか)
この教えを、もっと深く
藤樹の言葉に、もう少し近づきたい方へ。二冊、置いておきます。
『中江藤樹『翁問答』』(致知出版社) 藤樹の主著を読みやすくした一冊。問答形式なので、堅い漢文を読み下す必要がありません。「五事を正す」がどんな文脈で語られたのかが見えてきます。
『代表的日本人』(岩波文庫・内村鑑三/鈴木範久 訳) 内村鑑三が英語で世界に紹介した5人の日本人を描いた一冊。二宮尊徳も含まれています。新渡戸稲造の『武士道』と同じ時期に、同じ志で書かれた本です。
人物プロフィール:中江藤樹(なかえ・とうじゅ)
1608年〜1648年。江戸時代前期の儒学者。日本における陽明学の祖とされる。近江国高島郡小川村(現在の滋賀県高島市安曇川町)生まれ。
9歳で祖父の養子となり、伊予大洲藩(現在の愛媛県)に仕える。学問に打ち込み将来を嘱望されたが、27歳のとき、故郷に一人残した母を養うために脱藩し、小川村へ戻った。
以後は私塾を開いて学問を説き、村人の相談に応じながら生活した。命令や規則ではなく自らの在り方によって周囲を変えたとされ、死後、人々から「近江聖人」と呼ばれた。
主著は『翁問答』。「貌・言・視・聴・思」を整える「五事を正す」の教えと、知ることと行うことは一つだとする「知行合一」で知られる。1648年、41歳で死去。門下からは熊沢蕃山らが出た。
