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一日の終わりに、私たちはよく、その日を採点しています。
「今日は良い一日だった」
「今日は最悪だった」
うまくいけば、良い日。うまくいかなければ、悪い日。
そうやって毎日を採点していると、良い日と悪い日の割合に、人生が左右されるようになります。そして多くの場合、思い通りにいかない日のほうが、多いものです。
けれど――そもそも日に、良いも悪いもないとしたら、どうでしょう。
茶室の掛け軸に、よく書かれている言葉があります。
「日々是好日(にちにち これ こうにち)」
毎日が、良い日である――。
一見、明るく前向きな標語のようです。けれど、この言葉の本当の意味は、まったく違うところにあります。
なお、この五文字は禅の世界では「にちにち これ こうにち」と読むのが一般的です。茶道の席や、映画にもなった随筆の題名では「にちにち これ こうじつ」とも読まれます。どちらかが誤りというわけではなく、千年のあいだ、読み方まで含めて人が受け渡してきた言葉です。
「これからのことを、一言で言え」
この言葉の元になったのは、中国・唐の時代の禅僧、雲門文偃(うんもん ぶんえん)の問答です。禅の代表的な公案集『碧巌録(へきがんろく)』の第六則に、「雲門日日是好日」として収められています。
ある日、雲門は弟子たちに、こう問いかけました。
「十五日以前は問わず。十五日以後、一句を道(い)え」
これまでのことは問わない。これからのことについて、一言で言ってみよ――。
この「十五日」が、いつを指すのか。禅の世界には、雨安居(うあんご)の明けた日、つまり僧たちが九十日間こもりきりで修行する期間が、ちょうど終わったその日を指すのだという解釈があります。
だとすれば、この問いの重みが変わってきます。
やり遂げた。修行は終わった。その達成感のただ中にいる弟子たちに向かって、雲門はこう言ったことになるのです。
ここまでのことは、もう問わない。で、明日から、どう生きる。
弟子たちは、誰も答えられませんでした。
すると雲門は、自ら答えます。
「日々是好日」
この短い問答の意味は、長く禅の世界で議論されてきました。
広く受け取られている解釈は、こうです。
過去を悔やまず、未来を憂えず、今日という日を、そのまま受け取れ。
雨の日も、晴れの日も。うまくいく日も、いかない日も。すべてが「好日」である。
これは、楽観主義ではありません。
むしろ、あるがままを受け入れる、覚悟の表明なのです。
「好日」は、選ぶものではない
私たちが日を採点するとき、そこには一つの問題があります。
自分の都合で、日を裁いているということです。
雨が降れば「悪い日」。けれど、農家にとっては恵みの雨かもしれません。
計画が狂えば「悪い日」。けれど、その変更が、後から見れば正しかったということもあります。
私たちは、その瞬間の狭い視野で、一日を判断しているのです。
雲門が言う「日々是好日」とは、この評価をやめよ、ということでした。
良いも悪いもない。今日という日を、そのまま受け取る。
そのとき初めて、その日の本当の意味が見えてきます。
江戸の禅僧・良寛は、大地震のあと、被災した知人への手紙にこう書きました。「災難に遭う時節には、災難に遭うがよく候」――避けられないものは、あるがままに受け入れる。
抵抗が苦しみを生み、受容が静けさを生む。「日々是好日」も、同じことを言っています。(良寛「一日一生」の記事はこちら)
今日という日は、二度と来ない
「日々是好日」には、もう一つの側面があります。
今日という日は、二度と来ない。
同じ日は、人生で一度きりです。昨日と同じように見える今日も、実はまったく違う一日です。
茶道には「一期一会」という言葉があります。千利休は「路地へ入るより出づるまで、一期に一度の会のように」と説いたと伝えられ、その教えを書き残したのは弟子の山上宗二でした。そして「一期一会」という四字熟語の形にして広めたのは、幕末の大老・井伊直弼です。
一生に一度の出会いだと思って、この一会を大切にする。何百年もかけて受け継がれたその精神は、「日々是好日」と深く響き合います。(千利休「守破離」の記事はこちら)
毎日繰り返される日常も、実は一度きりの機会の連続です。
同じ人と交わす挨拶も、同じ道を歩くことも、今日という日には、今日だけの意味がある。
そう思えたとき、退屈だと思っていた日常が、少し違って見えてきます。
受け入れることと、備えること
ここで、一つの疑問が生まれます。
「あるがままを受け入れる」なら、準備や計画は不要なのでしょうか。
そうではありません。
禅は、努力を否定しません。むしろ、修行という徹底した努力を求めます。
大切なのは、順序です。
まず、できる限りの準備をする。そのうえで、起きたことを受け入れる。
「人事を尽くして天命を待つ」と、まったく同じ構造です。
人事を尽くさずに「日々是好日」と言うのは、ただの怠惰にすぎません。尽くしたうえで、結果をあるがままに受け取る。その姿勢が、揺るがない心を作ります。
変えられるものは、変えていく。変えられないものは、受け入れる。そしてその二つを、見分ける。ニーバーの祈りもまた、この同じ順序を説いていました。(ニーバーの祈りの記事はこちら)
準備を尽くす。そして、何が起きても受け取る覚悟を持つ。
この両輪が、静かで豊かな日々を作っていきます。
今を生きる私たちへ
「日々是好日」は、千年以上前の禅語でありながら、今日の私たちにそのまま効きます。
一日を、採点しない。 「今日はダメだった」と裁いた瞬間、その日は本当にダメな日になります。評価をやめると、同じ一日がまったく違う姿を見せます。
思い通りにならないことを、前提にする。 予定は狂うもの。人は思い通りに動かないもの。そう構えておくと、起きたことに振り回されにくくなります。
今日だけの意味を、探してみる。 同じ道、同じ人、同じ作業。その中に、今日だけの何かが必ずあります。天気、光、誰かの表情。気づけるかどうかだけの違いです。
準備を尽くしたら、あとは手放す。 できることをやったら、結果は受け取る。この順番を守れる人が、いちばん静かに強くいられます。
おわりに
「日々是好日」は、茶道の世界で特に大切にされてきました。
茶室では、雨の日には雨の日の趣を、雪の日には雪の日の風情を味わいます。天候を嘆くのではなく、その日ならではの美しさを見出す。
思い通りにならないことを、嘆かない。むしろ、そこに別の価値を見出す。不完全なもの、移ろいゆくものの中に美を見る――「わび・さび」の精神です。
正直に言えば、私にも、一日の終わりに採点する癖があります。うまくいかなかった日は、布団の中で何度も巻き戻して、「今日はダメだったな」と結論を出してしまう。
けれど、その採点をしているのは、いつも自分です。
これからも、思い通りにならないことは、必ず起きます。仕事のトラブル、人間関係の摩擦、予期せぬ出来事。
けれど、それらもすべて「好日」の一部です。
準備を尽くし、そして起きたことを受け取る。その繰り返しが、人生を作っていきます。
今日という日も、二度と来ません。
この静かな時間もまた、一度きりのものです。
今日がどんな一日だったかは、まだ決まっていないのかもしれません。
(「終わった一日を、良いとも悪いとも採点しない」。同じ構えを、コートの上で実践し続けた人がいます。ロジャー・フェデラー――一流でも、ポイントの46%は失っている)
(雲門の「採点をやめる」を、他の4人との共通点から振り返るまとめ記事です。5人の賢者――「頑張れ」と言わなかった彼らが、代わりに変えたもの)
この禅語を、もっと知りたい方へ
「日々是好日」をはじめとする禅語には、短い言葉の中に、生き方の知恵が凝縮されています。
ご紹介するのは、茶道を習いはじめた一人の女性が、二十数年のけいこを通して、この五文字の意味に少しずつ気づいていく随筆です。2018年に映画化され、樹木希林さんの最後の出演作となりました。
禅の解説書ではありません。雨の音、湯の音、季節の移ろい。お茶のけいこの中で起きた小さなことが淡々と綴られていて、読み終わるころには、この言葉が理屈ではなく、体でわかるようになっています。
この言葉が「前向きな標語」ではないと知った今なら、その一文字一文字が、より深く響くはずです。
『日日是好日 「お茶」が教えてくれた15のしあわせ』(新潮文庫・森下典子)
人物プロフィール:雲門文偃
経歴・功績
ひとことで:短い一言で本質を突いた、唐末の禅僧。「日々是好日」という五文字で、良し悪しを評価せず今日をそのまま受け取る生き方を示し、千年を超えていまも日本の美意識に生き続けている。
