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賢者名鑑 / 日本
嘉納治五郎
かのう じごろう
1860年12月10日 — 1938年5月4日|摂津国御影村(現・兵庫県神戸市東灘区)
「術」から「道」へ ── 技を、人間教育に変えた

どんな人か
柔道をつくった人です。ただし彼がしたのは、強い技を編み出すことではありませんでした。当時ばらばらだった柔術の流派を学び直し、そこから「人を育てるしくみ」を組み立て直した。だから名前を「柔術」ではなく柔道とした。「術」を「道」に変えた人、と言われるのはそのためです。
のちに東京高等師範学校の校長を二十年以上つとめ、日本人で初めて国際オリンピック委員会の委員になりました。畳の上だけでなく、学校でも、世界の舞台でも、同じことをしていた人です。
基本データ
- 生まれ
- 1860年12月10日出典1旧暦の万延元年十月二十八日。記事では「1860年(万延元年)」と表記
- 没
- 1938年5月4日出典1エジプト・カイロでのIOC総会からの帰国の船中で、肺炎のため。享年77
- 生まれた地
- 摂津国御影村(現・兵庫県神戸市東灘区)出典1
- 体格
- 身長158センチほどと伝えられる出典2全日本柔道連盟は「明治初期としても決して大きな身体の持ち主ではなかったため(身長160センチ足らず)身体が弱いというコンプレックスを抱えていました」と記す。本人の正確な記録は残っておらず、断定はできない
- 分野
- 柔道家・教育者・スポーツ指導者出典3異名は「柔道の父」「日本体育の父」
- 講道館
- 1882年、22歳のときに創設出典3東京・下谷の永昌寺で。畳12畳、門下生はわずか9人からの出発だった
- 学んだ柔術
- 天神真楊流・起倒流など複数の流派出典3各流派の技を研究し、危険な技を排して安全に修行できる体系へ再構築した
- 教育者として
- 東京高等師範学校(現・筑波大学)の校長を前後3回・通算23年余り出典3自ら弘文学院を設けて中国人留学生を受け入れ、その中には魯迅もいた
- オリンピック
- 1909年、日本人として初めてIOC委員に就任出典3日本のオリンピック初参加を実現。1936年のIOC総会で1940年東京オリンピックの招致に成功したが、大会は戦争の影響で返上された
- いまの柔道
- 200を超える国と地域に広がり、オリンピック正式競技となっている出典3
小さな体から始まった
なぜ彼は柔術を習い始めたのか。強くなりたかったから、ではありません。体が弱いことが、ずっと引け目だったからでした。
学問では人に負けなかった。十二歳で英語とドイツ語を学び、十四歳で開成学校へ進んでいます。それでも、体の小ささだけはどうにもならない。だから彼は畳の上に立ちました。
そして学ぶうちに気づきます。流派によって、教えていることが違う。ある道場で正しいとされる技が、隣では否定される。ならば、と彼は自分で道場を開きました。二十二歳のときです。
力の強い者が勝つのではなく、理にかなった者が勝つ。その理を、誰にでも伝わる形に整理しなおす——それが講道館の始まりでした。
体格に恵まれなかったから、力に頼らない道を探した。探すうちに、それは技の話ではなく、人の育て方の話になっていった。柔道が「道」である理由は、この順番のなかにあります。
この人の言葉
ゆかりの地
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もっと深く出会うために
『嘉納治五郎 オリンピックを日本に呼んだ国際人』(潮文庫・真田久)
柔道の創始から教育、オリンピック招致まで――「柔道の父」の生涯を、嘉納研究の第一人者(筑波大学教授)がやさしく描いた評伝。記事でも紹介している一冊です。
▶ 楽天で見る出典
- ウィキペディア「嘉納治五郎」
- 全日本柔道連盟 コラム第1回「『柔道の父』嘉納治五郎のルーツ」
- 和育道「嘉納治五郎――158センチの少年が世界に広めた、「術」から「道」への革命」(記事本文の表記に準拠)
- ウィキペディア「講道館」
数字や表記は、記事本体に合わせています。出どころで食い違うものは、両方を併記しました。
