和育道〜wa-iku〜

賢者名鑑 / 日本

高嶋仁

たかしま ひとし

1946年5月30日(存命)|長崎県五島市(五島列島)

握る場所と、離す場所 ── 準備は厳しく、本番は自由に

高嶋仁の記事の挿絵
ベンチではなく、スタンドから。任せるとは、手を離すこと(挿絵:和育道)

どんな人か

甲子園でいちばん多く勝った高校野球の監督です。智辯学園・智辯和歌山の両校で指揮を執り、甲子園に38回出場。春夏通算68勝は歴代最多で、優勝は春夏あわせて3回。

厳しい指導者として語られてきた人ですが、調べていくと逆の顔が出てきます。甲子園という最も高い舞台でこそ、選手の自主性に任せた人でした。

基本データ

生まれ
1946年5月30日出典1
生まれた地
長崎県五島市(五島列島)出典1
分野
高校野球指導者出典32018年夏を最後に監督を勇退(2026年9月時点の情報)
選手として
海星高校(長崎)で2度の甲子園出場出典3日本体育大学を経て、奈良県の智辯学園でコーチ・監督を務めたのち、1980年に智辯和歌山高校へ移った
監督としての記録
甲子園に38回出場。春夏通算68勝は歴代最多、優勝は春夏あわせて3回出典3
指導論の第1条
「選手との距離感を大事にする」出典3練習では厳しさを求める一方、甲子園の舞台では選手の自主性に任せる姿勢を貫いた
受け継がれたもの
2026年夏、教え子の中谷仁監督が率いる智弁和歌山が5年ぶりの優勝出典3中谷監督は、高嶋さんが率いた1997年の優勝チームで主将を務めた選手だった

48年握り続けた人が、最後に手を離した

1980年、開校3年目の智辯和歌山へ移ったとき、チームは「練習試合も含めて1度も勝ったことがないようなチームだった」と本人が振り返っています。走塁で滑り込めば骨折し、外野フライを追ってフェンスに激突して救急車で運ばれる。陸上部、バスケ部、バレー部から来た3人が、はじめの一歩でした。

そこで新監督が言ったのが、これです。「とりあえずポールからポールまで100本走ろうか」。かかった時間は2時間半。そして翌日、グラウンドには誰もいなかったそうです。

そこから甲子園38回出場・通算68勝という歴代最多の記録まで積み上げた人が、指導論の第1条に置いたのは「選手との距離感を大事にする」でした。

練習では厳しさを求める。けれど甲子園の舞台では、選手の自主性に任せる。握るところと、離すところを分けていたのです。任せるとはどこまでを言うのか——その答えを、いちばん高い舞台で見せました。

2018年夏を最後に勇退。2026年夏、教え子の中谷仁監督が率いる智弁和歌山が5年ぶりの優勝を果たしたとき、高嶋さんはベンチにいませんでした。教えた人が、任せた人を、外から見ていた試合でした。

この人の言葉

僕が行くまでは練習試合も含めて1度も勝ったことがないようなチームだった出典31980年に智辯和歌山へ移った当時を、本人が振り返った言葉
とりあえずポールからポールまで100本走ろうか出典3赴任初日に選手へかけた言葉。かかった時間は2時間半で、翌日グラウンドには誰もいなかったという

ゆかりの地

1946

長崎県 五島列島出典3

生誕の地。地元の強豪・海星高校で、2年夏と3年夏に甲子園へ出場した。

1980

智辯和歌山高校(和歌山県)出典3

開校3年目、勝ったことのないチームへ赴任。ここから甲子園最多勝の歴史が始まった。

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出典

  1. ウィキペディア「高嶋仁」
  2. 和育道「高嶋仁「甲子園は、自由にさせる」――48年握り続けた人が、最後に手を離した」(記事本文の表記に準拠)

数字や表記は、記事本体に合わせています。出どころで食い違うものは、両方を併記しました。